高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
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 ●知ってる人物で近世を学ぶ(96〜110P)

  農民一揆と茂左衛門事件           田 畑 勉  群馬工業高等専門学校教授

     
     
   

 群馬県には、「(い)伊香保温泉 天下の名湯」からはじまり、「(す)裾野は長し 赤城山」でおわる、"上毛かるた"がある。このかるたは、昭和22年の初版発行以来、50年を経過し、累計100万部以上も刊行されてきた。これは、現在の群馬県の人口200万人からみて、二人に一人が購入した計算になり、県民にいかに親しまれてきたかを示している。それは、このかるたを通して、郷土群馬の特徴的な歴史・地理・産業・文化を容易に学ぶことができるとあって、幼稚園や小学校の教材にも利用されることが多かったことによろう。数年前、群馬高専の学生のなかに、上毛かるたの札を何枚も覚えている者が少なくなく、なかでも、「(て)天下の義民 茂左衛門」の札が最もよく覚えられていることを知った。以来、私は2年生の日本史(1週1回・90分)の授業のなかに、学生がかるたの札で覚えた茂左衛門の事件を組み込んだ農民一揆について、一こまの講義に仕立てられないかを考えてみた。近世にさけるわずかな授業回数を思うと忸怩たるものがあるが、ここ2、3年、学生にこのようなかたちでぶつけている。ご助言をいただければ、まことに幸甚です(紙数の関係で、板書事項は省略する)。

 

   〔講義再現〕
   

 今日は、皆が上毛かるたの「天下の義民 茂左衛門」という札で覚えている、茂左衛門の事件を組み込んだ、農民一揆の講義をすることにしたい。茂左衛門を「義民」というのは、自分の身を犠牲にして、暴虐な真田の殿様によって苦しめられていた沢山の農民たちを、救った人ということからきているのも知っているな。そうした人だから、群馬では、大変よく知られているが、そればかりでなく、群馬の人としては、新田義貞・国定忠治らとともに、全国にもよく知られている歴史上の人物といってよいだろう。

 すでに、授業(「太閤の遺言状」で、近世の原型を講義)でやったように、近世という時代は、戦争がないという意味に限定されるとはいえ、ほとんど300年間にわたって平和な時期が続いた、世界史でも珍しい、強固な幕藩領主が統治する時代であったことを知っている。しかし、その内部では、強固な幕藩領主の統治に対し、農民たちが抵抗し、対抗する歴史も絶え間なく続いていた。

 青木虹二氏がまとめられた『百姓一揆総合年表』のなかで、農民が領主にいどむ、いわば"非合法闘争"ともいうべき農民一揆の件数は、もう15年ほども前になる当時の段階の調査でも、全国で3212件が知られ、年平均にすると約12件、つまり、少なくとも毎月、どこかでかならず1件の割合で農民一揆がおきていたことになるほど多かったといってよいだろう。

 ところで、こうした農民一揆は、農民たちの側に犠牲者を出すことがさけられなかっただけに、幕藩制社会の成立・確立・変質・崩壊の各過程のなかで、なんの工夫もなく、いつも同じように繰り返えされていたであろうか。

 

   1. 農民一揆の展開
   

 まだ、日本史の世界で"市民権"を得ているとは言いがたいが、かつて、京大の堀江英一氏が『明治維新の社会構造』という本のなかで、幕藩制社会の展開過程のなかでおきる農民一揆を、四期に分けて、およそ次のようにとらえている。時期の区切りにした各徳川将軍は、先週、「幕政の展開と文化」で講義したばかりなので、もう一度、復習のつもりで思い起こすこと。

 それでは本題にはいると、第一期は、幕藩制社会の成立期と考える、豊臣秀吉が天下を統一した天正18年から、徳川将軍のなかでも有名な三代将軍家光の頃ぐらいまでの約100年間をさす。この時期は、大坂冬・夏の戦争後も、いつまた戦乱がおきるかもしれないことから、幕藩領主は富国強兵をはかる一環として、盛んに大規模な新田開発をおこない、働き手の農民を一人でも多く必要としていた。そのため、非情な領主に対し、農民たちは皆で他領に逃亡することで打撃をあたえることができた。農民が着の身着のままで逃げても、他領の領主が土地や農具から当座の生活費まで用意して迎え入れてくれたからできた、農民たちの領主に対する闘いの手段であった。これが第一期を特徴づける「逃散型一揆」で、領主は農民たちに逃亡されないためには、無理難題を押しつけたりしない、またはできない効果をあげ、しかも、農民たちもあまり犠牲をはらうことなく、自分たちを守ることができた、まさに"逃げるが勝ち"であった。

 しかし、この手段は、いつまでも通じるというわけにはいかなかった。新田開発する土地もなくなるようになると、各領主は、いろいろ優遇してまでも逃亡してきた農民を迎え入れる必要がなくなり、むしろ、そうしたことがあったさいには、逆に、相互に返還しあったりするようになる。こうなると、農民たちは、逃亡先を失って逃げることができなくなり、もはや逃亡が領主に打撃をあたえる手段にならなくなり、「逃散型一揆」の時期をおえることになる。

 第二期は、幕藩制社会が確立する、"犬公方"で知られる五代将軍綱吉の頃ぐらいから六代将軍家宣の時期ぐらいまでの50年間をさす。この時期は、幕藩領主にとって、幕府は諸藩の領主、諸藩の領主にとっては幕府がもっとも警戒すべき相手になった。それは、幕府が威厳を示すために、諸藩の領主を圧迫する機会をねらっていたので、諸藩の領主はその名目を幕府に与えないようにしなければならなかった。そのため、領主が横暴なことをすると、農民たちの代表はひそかに脱出し、自分の身を犠牲にして、それを幕府に直接訴えて救いを願い、幕府もそれをいれて、領主を取り潰す等の処罰をおこなうことになる。そこで、領主は幕府の処罰をおそれて、農民たちのなかにそうした行動をおこす者が出ないように自制し、あまり乱暴なこともできない、またはしないようになるわけだ。しかし、直接、幕府に訴え出た者は、訴えの内容がどれほど正しくても、身分をこえて直接訴え出た罪、「直訴」・「越訴」の罪を問われて、磔・獄門等の極刑に処せられることになる。こうして、極刑を覚悟の上の数人の犠牲者のお蔭によって、多くの農民たちが救われるが、この時、犠牲になった農民は、いわば多くの農民の身代わりになったのも同然であることから、後に「義民」としてたたえられるようになるのが普通であった。これが第二期を特徴づける「代表越訴型一揆」と呼ばれる、農民たちの闘い方となった。

 しかし、幕府の権威が確立し、完全に全領主が幕府のもとに屈伏するようになると、もはや、威圧のための処罰も必要としなくなるようになる。つまり、幕府は「直訴」・「越訴」をした者を極刑にしながらも、その願いを取り上げなくなり、領主も安全が脅かされなくなる。このため、農民たちは、犠牲者を出しても、目的を達成することができなくなり、この「代表越訴型一揆」のおわりがくる。

 第三期は、幕藩制社会が変質期になる、"米将軍"で有名な八代将軍吉宗の頃から、十代将軍家治の頃ぐらいまでの80年間を指すとみたい。この時期になると、横暴な領主に対し、多数の農民が団結して、数の力で対決するようになる。いわゆる、むしろ旗を押し立てて、竹槍や鍬・鎌をもった数十か村、時には領域すらこえて結集した数万の農民たちが山に立て籠もったり、城下にすら押し寄せたりするようになる。普通、名主らの村役人に率いられ、計画的・組織的、そして持続的になる農民たちの闘いは、

 第三期を特徴づける「惣百姓型一揆」とか「全藩型一揆」、この頃では「広域型一揆」等とも呼ばれている。 この第三期にはいると、きわめて沢山の農民たちが結集して闘う強さは、領主にとって、深刻な脅威となり、彼らが共同して対決すべき強敵となった。このため、幕府は一揆がおきると、ただちに周辺の諸藩の出兵を命じるとともに、鉄砲の使用も許可し、高札を立ててさかんに密告をも奨励するなど、すこしおおげさなようだが、幕藩領主対農民たちの正面衝突の闘いの様相になったといってもよいだろう。

 しかし、農村における商品貨幣経済の発展によって、村の農民たちが、豊かになる農民と貧しくなる農民に分裂をはじめるようになると、農民たちは一致団結して同一歩調をとることができなくなり、もはや「惣百姓型一揆」も終わりをむかえるようになる。

 第四期は、"化政文化"で知られる十一代将軍家斉の頃から、明治四年(1871)の廃藩置県ぐらいまでの八〇年間ほどを指す。この時期は、貧富の差が拡大した、村のなかの農民たちは、豊かな農民と貧しい農民とのあいだで利害が対立するようになる。当然のことながら、少数にとどまる豊かな農民たちは、大多数の貧しい農民たちを前に不安を感じるようになり、財政が苦しくなっている領主に献金や融資をして、領主権威を背景とするようになる。そこで、貧しい農民たちは、豊かな農民たちに、いわば富の分配を求めたり、名主などの村役人の選挙を要求したりするなど、「村方騒動」と呼ばれるこぜりあいを繰り返した。そうした、同じようや状況が各村に広がるなかで、突如、貧しい農民たちは、「世をならして(富を平均化して)、世をなおす(直す)」ことを目指して、豊かな農民たち、そしてバックアップする領主をも襲う、大規模な闘いがおこすようになる。これは、「世直大明神」の旗を押し立てたり、張り紙をしたりして貧しい農民の結集をはかる等、密かに、指導者が計画・組織し、粘り強く持続する闘いとなる、第四期を特徴づける「世直し型一揆」と呼ばれている。

 このように見てくると、茂左衛門の事件が、近世の農民一揆のなかのどこにはいるのか、だいたい見当がつくと思う。そうだ、茂左衛門の事件は、第二期の「代表越訴型一揆」で、下総国(千葉県)の佐倉宗吾郎の事件とならぶ、「代表越訴型一揆」の見本的なもので、全国にも知られる有名なものだ。だから、次には、全国区でもとおる、郷土群馬でおきた茂左衛門の事件をみることにしよう。

 

 

 2. 茂左衛門事件

  事件の背景

   

  寛文2年(1662)および寛文12年の2回にわたり、沼田藩主の真田伊賀守信利は、藩領の再検地を強行した。この結果、藩領は同じ広さにもかかわらず、それまでの3万 石から、一挙に14万4000石と五倍弱になったことから、「拡大検地」と呼ばれた。これに ともない、農民たちが納める年貢は急増したうえ、各家の窓や井戸、それに婚礼等の祝儀にもかけられる、「窓役」・「井戸役」・「祝儀役」等の雑年貢も新設された。しかも、さらに、延宝八年(1680)八月の台風による江戸両国橋大破にともない、藩主信利が幕府から架け替え用の材木類の調達・納入を命じられ、農民たちを過酷な用材伐りだしや、運搬の労役に動員した。このため、沼田藩領の農民たちは、悲惨な生活に追い込まれた。

 

     越訴(直訴)
   

 こうした状況をまのあたりに見る、利根郡月夜野村(現在の月夜野町)の名主・杉木茂左衛門は、藩領の農民たちを救うため、藩主信利の悪政を幕府に訴えようと、藩領を密かに抜け出して江戸に潜入した。茂左衛門は、数度、江戸市中を駕籠に乗って通行する老中に、決死の「駕籠訴」をおこなうが、藩主信利の悪政を記した訴状を取り上げてもらえず、失敗におわった。そこで、茂左衛門は、訴状が確実に五代将軍綱吉のもとにとどくように、上野寛永寺(天台宗門跡寺院)の御門主・輪王寺宮の菊桐の紋章がはいった文箱に訴状をいれ、中山道板橋宿の茶店にひそかに置き去った。文箱に気づいた茶店の主人は、紋章を見てびっくりして寛永寺に届け、その中身におどろいた輪王寺宮が五代将軍綱吉に届けたことから、幕府が茂左衛門の訴状をとりあげるようになった。

 

     その結果
   

  幕府の評定所(通常、老中一名と寺社・江戸町・勘定の三奉行で構成)による、約 半年の審理後、天和元年(1681)11月22日、幕府は沼田藩真田家の領地・城を没収する取り潰し、藩主信利の出羽国山形藩お預け等の処分を決定した。そして、幕府は沼田藩領を一時的に幕府領とし、前橋藩に命じて貞享元年(1684)3月から再検地をおこなわせ、14万4000石の2分の1以下にとどまる6万5400石となり、農民たちの年貢負担も軽減されたことから、この検地は「お助け検地」と呼ばれるようになった。ところで、目的を達した茂左衛門は、しばらく、僧侶に身をかえて、江戸市中に隠れていたが、妻子に会うために月夜野村に帰ったところを捕らえられ、天和2年12月5日、輪王寺宮の助命嘆願が実ったもののまにあわず、月夜野村の利根川べりの竹之下川原で、妻子ともども磔の刑に処せられた。

 これが一般によく知られている、一身を犠牲にして、藩主信利の悪政に苦しむ藩領の農民たちを救った義民、茂左衛門事件の概要だ。しかし、大変有名なのに反し、この事件は、それほどはっきり論証されたことがなく、現在までに、どのていどわかっているのかをあげてみよう。

 

   

 3. 事件の若干の検討

 藩主信利の悪政

   

  まず、拡大検地の三〇年ほど前の寛永期と拡大検地がおこなわれた寛文期、それを是正するためのお助け検地がおこなわれた貞享期について、いくつかの村を例示すると、上久屋村では311石→1404石→560石、後閑村では375石→1687石→686石、下沼田村(いずれも現在の沼田市)では179石→870石→354石に変動しているので、5倍弱にもなったといわれる拡大検地は、単なる伝承ではなく、農民の年貢負担を実際に急増させたとみてよいだろう。次に、両国橋架け替え用材の伐り出し・運搬に動員された農民たちは、延宝9年3月から11月の9か月間に、16万8673人におよんだことが知られるので、これも、農民たちをさらに苦しめることになったであろう。その結果として、真田家取り潰しのわずか40日ほど後の調査に、かつての藩領180カ村のうち125カ村が困窮し、1万1989人が餓 死寸前の状態にあったとあることから、沼田藩領全域にわたり、農民たちの生活苦がいかに深刻な状態におかれていたかを推測できる。

 

     茂左衛門の越訴(直訴)
   

 まず、茂左衛門が越訴(直訴)したさいに使用した訴状の写といわれるものが、現在、18通ほど伝えられている。しかし、この訴状は、その書体・紙質・文言(ほとんど同文)からみて、いずれも、幕末期から明治維新期ぐらいまでの間に書かれた、いわゆる、後世の作の可能性が強いとみられる。特に、訴状のなかで年号が記されているものは、天和元年正月とか2月となっている。これは、延宝9年9月28日に、天和元年と改元されたこと を考えると、茂左衛門が使用した訴状を写し、または、さらにその写を後に写したとしても、年号は延宝9年正月とか同年の2月とかになっていなければならない。つまり、茂左衛門が訴状を書いた時点は延宝9年であり、彼はその時、この年が天和元年に改元されることなどまったく知らなかったからである。また、訴状のなかに記されている、農民たちが両国橋架け替え用材の伐り出し・運搬に動員されるのが、延宝8年6月15日からとなっているが、すでに見たように、両国橋が大破するのは同年八月であるため、藩主信利は幕府から、まだ命令もうけていないことになる。こうした矛盾から、茂左衛門の訴状の写が残されているからといっても、それをそのまま信用するわけにはいかないだろう。

 次に、この事件について、茂左衛門の越訴(直訴)の訴状の写以外、関連する史料がまったくない。真田家取り潰しにつながる大事件であることを考えると、なにか関連する史料が残りそうなもので、まったくないのは不自然ではないだろうか。また、徳川幕府の正史の『徳川実記』には、真田家取り潰しの理由として、両国橋架け替用材の遅れと藩内の不取締や不行き届きをあげ、輪王寺宮の助命嘆願をふくめ、茂左衛門の越訴(直訴)について、なにも記していない。つまり、近世において知られていた形跡が乏しいといってよいのではないだろうか。

 

     事件の有名化
   

 茂左衛門の事件が世に知られるようになったのは、どうやら明治期にはいってからのようである。それは、月夜野村の利根川原に、古くから、百日咳にご利益があると伝えられ、 時おり、村人がお赤飯などを供えていた、三体のお地蔵さんがまつられていた。ところが、明治7年(1874)、月夜野橋の架け替え工事にあたり、お地蔵さんを移転しようとしたさいに、土地の古老が、はじめて事件の顛末と犠牲になった茂左衛門とその妻子を祀ったお地蔵さんの由来を明らかにしたのが始まりになり、それから、人々の関心をあつめるようになったらしい。

 そして、明治28年(1895)、駒形荘吉の「上毛義人磔茂左衛門伝」の発表を皮切りに、相次いで、講談や戯曲になり、一気に有名になった。そこで、大正11年(1922)、地元の 有志が利根川べりに立っていた、茂左衛門地蔵と呼ばれるようになったお地蔵さんを、現在地に、千日堂というお堂を建てて移し収めるようになる。それからは、お参りをする参詣者が絶えず、戦前では、命日にあたるとする日には、参詣者のために、「茂左衛門列車」と呼ぶ特別列車が仕立てられるほどになる。

 このように見てくると、現在はっきりしていることは、第一は、沼田藩の真田家が取り潰しになったこと、第二は、真田家が取り潰しにあう頃、藩領内の農民の生活苦が深刻で、農民一揆がおきても不思議ではない状況にあったこと、第三は、しかし、茂左衛門の越訴(直訴)はその形跡があまりにも乏しく、歴史的事実なのかどうか判断しにくいところがあり、後世になって作られた疑いもないではないこと等であろう。とすると、皆が"上毛かるた"の札でよく知っている茂左衛門の事件を、第二期の「代表越訴型一揆」の見本とするのに、少しちゅうちょせざるをえないことになるが、ならんで有名な佐倉宗吾郎の事件もそうした点があることを思うと、そもそも「代表越訴型一揆」の存在そのものが、まだ検討の余地ありと言うことになろうか。

 

     4. 上州の農民一揆
   

 さて、皆が知っている、あの有名な茂左衛門事件があまりはっきりしたものではないことに、少しがっかりしたかも知れない。しかし、それとは別に、近世の上州でおきた農民一揆の件数は、全国の平均よりも50パ−セントほども多く、いわば、多発国といってよいと思う。それとともに、規模の大きなものが多いのが、特徴と言えるだろう。

 例えば、すでに話した、第三期の惣百姓型一揆の時期である、明和元年(1770)におきた「明和の伝馬騒動」とか、指導者を隠して天狗としたことから「明和の天狗騒動」とも言われる、中山道ぞいの信州の農民をもまきこむ、約20万人の農民が結集した、近世最大の農民一揆となった。これは、日光の東照宮(徳川家康)150回忌の法要に集まる、京都の朝廷の使いや藩主の行列等の人や荷物を運ぶために、幕府が中山道ぞいの板橋宿から信州の和田宿に至る村々に、「助郷」と呼ぶ人足や馬の数を割当・動員しようとした計画に反対して起きたものだ。竹槍や鎌をもった農民20万人が江戸に向かう勢いの前に、さすがの幕府も、この助郷計画の撤回を指令しなければならなかった。いいか、20万人という大農民一揆が、強力な幕府の命令をはねかえしたのだ。また、天明元年(1781)に、幕府が上州・武州(埼玉県)一帯にひろがる絹取引に目をつけ、品質や規格の統一をはかる名目で、十一か所に検査料を徴収する改会所の設置計画を発表したことに対し、西上州一帯の農民が反対しておきたのが「絹糸運上騒動」という大一揆だ。当時、幕府の老中であった高崎藩主の大河内輝高が発案者であったことから、この一揆は、高崎城に押し寄せ、藩では鉄砲を打って撃退しなければならなかった。農民一揆に鉄砲を使用した最初であり、幕府はこの計画も撤回に追い込まれた。同年の末にも、藩主が土岐家になった沼田藩では、苦しくなった藩財政再建のために、年貢を重くする検地に手をつけたところ、「見取騒動」と呼ぶ農民一揆が藩領全域に広がり、ついに中止せざるをえなくなる等があった。

 第四期の世直し型一揆の時期になると、慶応2年(1866)、お隣の武州秩父郡内から、貧 しい農民たちが穀屋・質屋を営む、豪農や豪商を襲って打ち壊す世直し一揆が始まり、それに呼応するように西上州一帯にもまきおこった。この一揆は三隊に分かれ、最終的には幕府の岩鼻陣屋の攻撃をめざし進んだことから、陣屋の指揮下に、大砲や鉄砲で武装した上州諸藩の部隊が、神流川沿岸に防衛ラインを築いて応戦するほどの大一揆になり、江戸が不安さらされたことから、幕府が長州再征を中止する一因になったほどである。また、明治元年(1868)になり、京都の朝廷の江戸城を攻撃する東山道総督府軍の進撃をまえに、上州全域でおきた世直し一揆が、幕藩制秩序の崩壊に拍車をかける結果となった。

 その後も、明治17年(1884)に、自由民権運動の一環として有名な群馬事件がおきる等、 郷土群馬には時の権力にただ従ってだけいない、民衆の伝統いぶきがあるのかもしれないが、長い時代にわたって、沢山の犠牲者のうえに築かれたことも忘れてはならないだろう。茂左衛門の事件は、そうしたなかで、絶えず希求されたであろう思いが生み出したものかも知れない。

 

   
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