高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
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 ●日本の孝行譚を学ぶ(79〜93P)

  現代っ子に孝道を説く            小谷信行  鈴鹿工業高等専門学校助教授

     
 

 発  端---御伽草子の「二十四孝」

 
   

  平成七年度に、三年生全クラスの日本文学の授業を受け持つことになった。シラバス作成当初は、日本文学史の講義をする予定であったが、もっと興味をそそられるような内容の授業をして欲しいという学生の要望が強かったので、種々検討した結果、御伽草子をやってみようということになり、テキストは、『お伽草子入門』(藤掛和美編 和泉書院)を使用することにした。
 このテキストには、「浦島太郎」、「一寸法師」、「ものくさ太郎」、「さいき」の四編が収録されている。「浦島太郎」、「一寸法師」、「ものくさ太郎」の三編は、幼時からお伽話として親しまれているので、学生の古典アレルギーを引き起こさずに済んだようである。「さいき」は、豊前の国の佐伯が、訴訟のために上洛したとき、京の女性と契りを交わしたが、約束を守らず故郷へ連れて帰らなかった。彼女から佐伯への手紙を見て事情を知った国元の妻は、自分の妹だと偽ってその女性を迎え入れ、妻の座を譲ろうとして出家した。このことを聞き知った京の女性は、身分の高い人でもいやしい者でも嫉妬するのが常であるのに、このように情け深い人を、どうして一人で出家させておくことができようかと思って、ともに出家した。二人の女性に捨てられた佐伯は、出家の身となって高野山へ上ったという話である。この話については、多くの男子学生が、「現代にも、このような女性がいてくれたらいいのになあ。」という感想を持ったのに対して、女子学生からは、封建時代の二人の女性の生き方に対する反駁といったものが、ほとんど聞かれなかった。このようにして、授業も順調に進み、平成八年一月には、テキストをすべて終了した。この後、お伽草子のどの作品を学ぶかが問題となった。切りの良いところで、いつでも止められるような作品が望ましい。そこで、思いついたのが「二十四孝」(市古貞次 『御伽草子』 日本古典文学大系38)であった。文字どおり中国の二十四の孝行話が集めてあり、短編になっていて、いつでも適当なところで止めることができるからである。とはいうものの、そのときには、「いまさら忠臣、孝子、烈婦でもあるまい。何を時代遅れなことを言っているのだ。」と、冷笑されるのではないかという不安があったが、とにかく「昔も今も親子の情に変わりはない。それならば、現代っ子にも孝道が理解できるはずだ。」と思い直して、「二十四孝」の講義を行うことにした。そして、次の七人の孝行の事跡まで進んだところで、時間切れとなった。
 参考のために、それぞれがどのような孝行をしたのか、その概要を述べておく。

 大   舜

   父は、頑固者であり、母は、心のねじけた人であったが、大舜はひたすら孝行を尽くした。
   その孝行に心を動かされて、彼が耕作をしていると、大象や鳥がやってきて手伝いをした。
   その当時の天下のご主君堯は、舜が孝行であることをお聞きなされ、ご息女をその后にたて、
   ついに天下をお譲りなされた。

 漢 文 帝

    母薄太后に食事をさしあげるときは、まず自分で毒見をされた。大勢の兄弟の中で、この
   帝ほど慈愛と道義を実践され、孝行な方はなかった。そのために、臣下たちから王位に推挙
   され、漢の文帝となられた。

 丁   蘭

    亡き母の姿を木像に刻み、まるで生きている人に仕えているように対していた。ある夜、
   妻が火で木像の顔を焦がした。すると、妻の顔が腫れ、髪の毛が刀で切ったように抜け落ち
   たので、驚いて詫び言をした。そこで、丁蘭は殊勝に思い、木像を大道に置いて、妻に三年
   間詫び言をさせた。すると、一晩のうちに雨風の音がして、木像がひとりで家の中へ帰った。
   それからは、ほんのちょっとしたことでも、木像の機嫌をうかがった。

 孟   宗

    孟宗は、老母を養っていた。病気のために、食物の味覚も変わり、求めるすべのないもの
   を望んだ。厳冬に筍を食べたいというので、やむなく竹林に行き、天に祈ったところが、急
   に大地がひらけて、筍がたくさん出てきた。それを取って帰り、母に食べさせたところが、
   病気もなおり長生きをした。

 閔 子 騫

  閔子騫は幼いときに母を失い、父は再婚して二人の子供ができた。寒い冬に、継母は、わ
   が子には暖かい綿入れを着せたのに、閔子騫には蘆の穂を入れたものを着せた。それを見た
   父が、継母を離縁しようとしたとき、閔子騫が言うには、「継母を離縁すれば、三人の子供
   が寒い目に合う。自分一人が寒さを我慢すれば、弟二人は暖かでいられる。」と言って父を
   諌めた。継母も、これに心を動かされて、のちには分け隔てすることなく、その慈愛は実母
   と同じようになった。

  曾   參

  曾參が山へ薪を取りに出かけ、母が留守居をしていたとき、曾參の親しい友人が来たが、
   家が貧しいために、これをもてなすことができなかった。母は、曾參が早く帰って欲しいと
   思って、自分の指を噛んだ。山で薪を拾っていた曾參は、にわかに胸騒ぎがしたので、急い
   で家に帰った。母は、ありのままを詳しく語り聞かせた。このように指を噛んだのが、遠い
   所で反応したのは、とりわけ孝行であって、親子の情の深いしるしである。

 王   祥

    王祥は幼いうちに母を失い、父は再び妻をめとった。継母の常で、父子の間を悪いように
   言い立て、父に子を憎ませたが、子は恨みに思わないで継母にもよく孝行を尽くした。この
   ような人だから、冬の寒いときに、生魚を欲しいという継母のために、川へ捜し求めにいっ
   た。しかし、氷が張って魚が見えないので、着物を脱いで裸になり、氷を溶かそうとしてそ
   の上に伏し、魚のいないことを悲しんでいたところ、氷がすこし溶けて、魚が二匹はね出て
   きた。ただちに取って帰り、母に差し上げた。これも、ひとえに孝行のためであって、その
   場所には、毎年人の伏しているかたちが、氷の上にできるということである。

 このときの「二十四孝」の授業に関する評価は、学年末試験の中で

  次の人物は、それぞれどのような孝行をしたのか。簡潔に記せ。
    ○漢文帝  ○孟宗   ○王祥

という設問を出題するに留まった。なお、同じく学年末試験の中の

  この一年間の「日本文学」の授業に対する感想を書け。

という設問に対する解答で、「二十四孝」に関係のあるものの一例を挙げてみると、大舜の孝心に感じて、象や鳥が耕作の手伝いに来た話にしても、「本当に舜が孝行ならば、そのようなことがあるかもしれない。」というのが大方の学生の感想であり、当初危惧していたような否定的な意見は、ほとんどなかったと言ってもよい。

 

   展  開---孝行話が楽しくて、イラストにした女子学生
   

 平成十年度には、二年生全クラスの国語Uの授業を担当することになった。時あたかも、「荒れる学校」という言葉が新聞紙上をにぎあわせ、学校としてもなんらかの対策をせまられている状況の中で、たとえ、ナンセンスとかアナクロニズムと非難されようとも、平成七年度に行った「二十四孝」の講義をを再度授業に取り入れるべきだと判断した。学生に向かって、親に対しては孝行をしなければならないという前に、先ず「孝行とはどんなものか。」ということを、具体的に示す必要があると考えたからである。
 そこで、国語Uの授業時間に「二十四孝」を学ぶこととし、前期中間試験までに既に七人分を終わっている。授業においては、語句の意味など細部にこだわることなく、全体の教訓を読み取るように指示した。そして、これまで学習した分について、定期試験の範囲には入れず、課題として、これら七人の孝行がどのようなものであったかということ、および、それらに対する感想を書かせた。
 その感想の中から、主だったものを抜き出してみると、次のようなものであった。

 大   舜

  ○孝行をしただけで天子になれるのなら、自分も孝行してみたいと思った。
  ○皇帝になってからも、今までの気持ちを忘れずに頑張ってほしい。日本の総理大臣も、
   こんな人だったら良いのにと思った。
  ○僕だったら、親がひねくれものであったりしたら、家を出て学校にも行かないだろう。

 漢 文 帝

  ○自分の命を犠牲にしてまで、自分を生んでくれた母親を大切にするというのは、僕には出
   来ない。また、毒見をするはずの他人に対する優しさでもあると思う。
  ○僕なら、自分で毒見をするのではなく、家来にやらせると思う。食事に毒が入っていて
   自分が死んでしまったら、親孝行どころかお母さんを悲しませることになりはしないか。
  ○皇帝というと、権力を握っていて、悪い心の人ばかりだと思っていた。今の日本の政治家に
   この話を読んで聞かせたい。上に立つ人が立派なら、世の中平和になるだろう。

 丁   蘭

  ○不思議なことがあるものだなあとつくづく思った。母親は死んだ後、像になって丁蘭を
   見守っていたんじゃないかと思います。
  ○この話は、母親に対しては孝行をしているが、妻がかわいそうだ。
   せめて一緒に詫び言をする気持ちが欲しいところだ。
  ○丁蘭は、少しマザコンではないかと思う。妻の方が空しい。これは、孝行でも何でもない。

 孟   宗

  ○母を思う心が、天に届いたということなのだろうと思うけど、冬に筍が出るなんてそれは
   ないだろうと思った。今だったら、天に祈願しなくても、一年中なんでも食べられる
   有り難さを忘れているように思う。
  ○この話には感心した。母のために、僕もこれくらいのことはしなければと、一番共感を
   もった話である。強い孝行の心は、不可能を可能にするのか。
  ○孟宗のように、母(父も)を大事にしたいという気持ちは、誰にでもあると思う。

 閔 子 騫

  ○どんなに差別を受けても、自分より他人を気遣って孝行を尽くす心が、今の人には大切だ。
  ○弟を大切に思うこともまた大切、家族みんなが大切なんだと思った。最後はみんな幸せに
   なって良かったと思う。
  ○我慢すれば、必ず報われるんだということが分かって、私も閔子騫のように他人のために
   耐えられる人間になりたいと思った。

 曾   參

  ○親に対して何かするというより、心が通じ合っているという話だ。物やお金をあげる
   という孝行の他に、こういう形の孝行もあるのかと、改めて考えさせられた。
  ○本当に母のことを心配していれば、このようなことがあり得るかもしれないと思った。
  ○これが親子の本当の関係であり、やはり孝行はするべきだとつくづく思った。

 王   祥

  ○嫌がらせをされても、恨まずに孝行をするなんて、すごすぎると思います。
   孝行とは自分を犠牲にしてでも、相手を喜ばせることではないでしょうか。
  ○幼いときに母に別れて新しい母が来たりすると、孝行がしたくなるのかなあと思った。
   初めからずっと母がいると、有り難みが分からなくなって、なかなか孝行ができない。
   孝行するのが恥ずかしいという気持ちもあるのだろう。
  ○ひどい仕打ちを受けても、孝行するなんてどうかしている。自分なら父母を殺しかねない。

 全体的な感想としては、

  ○孝行とは、親子の間に生まれる何か本当に素晴らしいものだと思う。
  ○「二十四孝」全部に共通して、自分を犠牲にすることは、すごいと思う。
  ○なぜ、母親に対する孝行が多いのであろうか。自分は今父母兄弟の五人家族であるが、
   もし、自分と母だけになったら、僕はどうするだろうか。僕は母のためにしっかりと生き、
   母を安心させてあげようと思う。そうやって生きることが、母への最高の孝行なのだと、
   僕は思っている。

 学生の中には、「孝行」を「考行」と書いている者がかなりいたが、総じて、ストーリーの把握も的確であり、個々の孝行譚に対する感想も、内容をよく理解した上でのものが多かった。しかし、なかには「二十四孝」の話を、孝行に関する教訓という観点から見るよりも、ただ単に古典の学習教材としてしか把握しえなかった者が少しいたようであり、これについては、今後反省すべき点だと思われる。特に印象に残ったのは、授業中の机間巡回のとき、ある女子学生が、それぞれの話を漫画化してノートに書いていたのを発見したことである。そのノートを借りて、子細に見たところ、それぞれの話のポイントをよく理解していることが明確に認められた。(図1)


 彼女の言によれば、「孝行の話がとても楽しかったので、思わずイラストにしてしまった。」ということであった。このような受容のしかたもあるのかと思うとともに、これに力を得て、さらに次のような授業を組み立てた。

 

   展  望---「二十四孝」から「孝女登勢」へ
   

 御伽草子の「二十四孝」は、なんといっても中国の話ばかりであり、もうひとつ面白みに欠けるける憾みがある。ここはひとつ、日本の孝行譚を学ぶにしかずという結論に達したのであるが、なんといっても、世に孝子の伝記伝説は数多い。それらを集めた代表的なものとして、『日本教育育文庫 孝義編 上』(黒川真道編 日本図書センター 昭和五十二年復刻)には、『皇朝二十四孝』以下『義奴八助伝』まで三十九編を収録、同じく『日本教育文庫 孝義編 下』(黒川真道編 日本図書センター 昭和五十二年復刻)には、『本朝女二十四孝』以下二十三編と、附録として『金言類聚抄』、『鳥獸孝義伝』の二編を収録している。しかし、同じ取り上げるのなら、やはり身近な郷土の孝子にしくはない。当地方の孝子を扱ったものとしては、さきの『日本教育文庫 孝義編上』所収の『勢陽善人録』、『勢州鈴鹿孝子万吉伝』があるが、前者は、元文、寛保、明和頃の伊勢国藤堂家領内における孝義の者、善行者を集めたものであり、貧しいながらも親によく仕え、年貢等を延滞することなく、昼夜精を出してよく働くといったものばかりで、書上(上申書)の体をなしており、したがって、いささか叙述が平板である。また、後者は、伊勢国鈴鹿郡坂下駅古町の万吉の話である。万吉は、四歳のときに父に先立たれ、母も病弱であったので、六歳にして毎日街道に出て、旅人の小さい荷物などを持って僅かの賃銭をとり、夕方になると母に渡していた。このことが街道を行き来する人々の評判となり、積善の余慶空しからず、天明七年春ついに東都に召し下され、道中御奉行桑原伊予守様御役所において、ご褒美として万吉へ白銀二十枚、母へ一生一人扶持を下されることになったというものであるが、鈴鹿山の麓の街道における典型的な孝子伝の域を出ず、教材として取り上げるには、今一歩の感を免れない。
 そこで、更にもっと適当なものはないかと捜索した結果、安芸郡安濃町連部の孝女登勢があった。彼女については作家の岸宏子さんが、昭和五十三年十一月十九日及び二十五日の中日新聞の「三重の女の一生」I、Jに、「孝女登勢」と題してその事跡を紹介しておられる。
 『孝女登勢伝』(文化五年刊 杉本正水著)によれば、登勢は伊勢員弁郡阿下喜村の富農の家に生まれたが、妾腹の子であったので、庵芸郡山田井村(現在・津市)の農家吉兵衛の養女になった。しかし、その後吉兵衛に実子が生まれたので、安濃郡連部村(現在・安芸郡安濃町連部)の伝蔵・この夫婦の養女になった。ところが、伝蔵は、生まれつき体が弱く、病気が次第に重くなり、生活に困って竹柱の小屋に住み、近辺へ物貰いに出るようになった。登勢は、近くへ奉公に出たが、その合間には両親の元へ帰り、薪を取ったり、食事の世話や、用事を聞いてやった。夜も家に帰るように心がけた。近所の者が、「主人の家で寝れば、畳のうえで夜具もあり、寒いことはないのに、家に帰って寝るなどどうしてそんな苦労をするのか。」と言ったところが、「両親を案じて。」とのみ答えた。享和二年伝蔵夫婦は、あまりに病気が苦しいので、熊野本宮へ湯治にゆき、西国巡礼をしたいと思って、ひそかに出発した。一両日過ぎてそれを聞いた登勢は、取るものも取りあえず主人へ断りを言い、後を追った。程なく追いつき、ともに乞食をしながら、三人ともようやく帰って来た。伝蔵の妻このの病気も次第に重くなってきたので、村方に厄介になることを気の毒に思い、善光寺へ参詣し、途中で相果てる覚悟で、登勢にも知らせぬようにして出発したが、これを聞き付けた登勢は、主人の家を抜け出して後を追った。飢え死にしかかっていた両親は、登勢が追いついてくれたことを誠に神仏の助けであると、涙を流して喜んだ。登勢は、一人の手をひき、一人に肩を貸し、険しい山坂を越えるときは、一人を背負い、一人をその場所に待たせて、また戻り、後の一人を背負った。それを見る人々は、「二十歳にも足らぬ女の子が、世間並に顔も化粧し、衣類も着飾りたい盛りに、ひとえに親を思う孝心から、これほどまでに苦労をすることよ。」と哀れがり、米を与え、銭を恵んでくれた。その後半年ほどして、無事に村へ帰った。だが、伝蔵夫婦の病気も重くなり、世話をする者もなくなったので、登勢は奉公をやめ、看病に専念した。夫婦は豆腐が好きだったので、時折買い求め、そのほか望みのものを心掛けて食べさせた。文化五年、御領下一円に「孝子ならびに奇特なる者あらば申し出よ」との仰せ事があり、村役人より書附をもって登勢の行状を申し上げたところ、早速お聴きに達し役所へ召されてご褒美として米二十俵をいただいた。
 この話は、地元の東観中学校の文芸クラブが、顧問藤山真哉教諭(当時)の指導の下に、昭和51年の文化祭に、「孝女登勢」と題して三幕の劇(図2)にしたてて上演し、講堂も割れんばかりの拍手を受けた。


 現在、津市の偕楽公園には、登勢の顕彰碑が建てられており、また、地元の安芸郡安濃町連部には、津藩が竹小屋跡にたてた「孝女登世墓」(図3)があり、彼女の子孫の方が守をしておられる。そこで、授業時間中には無理であるが、休日などにそれらを訪ねるフィルドワークを行い、その後で孝行サミットを開催したいと思っている。
 平成10年7月8日の中日新聞夕刊の「紙つぶて」欄で、女優の岸恵子さんは、冒頭に「親孝行、という言葉は死語になりつつある、と誰かが言った。けれど、親を慕い、子を思う人間の性が消えるはずがない。」と言っておられるが、まさにそのとおりである。今回の経験からして、現代っ子に孝心がないのではなく、我々がそれを引き出してやらねばならないということを痛感した。

 

   
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