高専実践事例集V |
工藤圭章編 高等専門学校授業研究会 1998/12/20発行 |
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T 感動させます
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●日本の孝行譚を学ぶ(79〜93P) 現代っ子に孝道を説く 小谷信行 鈴鹿工業高等専門学校助教授 |
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発 端---御伽草子の「二十四孝」 |
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平成七年度に、三年生全クラスの日本文学の授業を受け持つことになった。シラバス作成当初は、日本文学史の講義をする予定であったが、もっと興味をそそられるような内容の授業をして欲しいという学生の要望が強かったので、種々検討した結果、御伽草子をやってみようということになり、テキストは、『お伽草子入門』(藤掛和美編 和泉書院)を使用することにした。 大 舜 父は、頑固者であり、母は、心のねじけた人であったが、大舜はひたすら孝行を尽くした。 漢 文 帝 母薄太后に食事をさしあげるときは、まず自分で毒見をされた。大勢の兄弟の中で、この 丁 蘭 亡き母の姿を木像に刻み、まるで生きている人に仕えているように対していた。ある夜、 孟 宗 孟宗は、老母を養っていた。病気のために、食物の味覚も変わり、求めるすべのないもの 閔 子 騫 閔子騫は幼いときに母を失い、父は再婚して二人の子供ができた。寒い冬に、継母は、わ 曾 參 曾參が山へ薪を取りに出かけ、母が留守居をしていたとき、曾參の親しい友人が来たが、 王 祥 王祥は幼いうちに母を失い、父は再び妻をめとった。継母の常で、父子の間を悪いように このときの「二十四孝」の授業に関する評価は、学年末試験の中で 次の人物は、それぞれどのような孝行をしたのか。簡潔に記せ。 という設問を出題するに留まった。なお、同じく学年末試験の中の この一年間の「日本文学」の授業に対する感想を書け。 という設問に対する解答で、「二十四孝」に関係のあるものの一例を挙げてみると、大舜の孝心に感じて、象や鳥が耕作の手伝いに来た話にしても、「本当に舜が孝行ならば、そのようなことがあるかもしれない。」というのが大方の学生の感想であり、当初危惧していたような否定的な意見は、ほとんどなかったと言ってもよい。
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展 開---孝行話が楽しくて、イラストにした女子学生 |
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平成十年度には、二年生全クラスの国語Uの授業を担当することになった。時あたかも、「荒れる学校」という言葉が新聞紙上をにぎあわせ、学校としてもなんらかの対策をせまられている状況の中で、たとえ、ナンセンスとかアナクロニズムと非難されようとも、平成七年度に行った「二十四孝」の講義をを再度授業に取り入れるべきだと判断した。学生に向かって、親に対しては孝行をしなければならないという前に、先ず「孝行とはどんなものか。」ということを、具体的に示す必要があると考えたからである。 大 舜 ○孝行をしただけで天子になれるのなら、自分も孝行してみたいと思った。 漢 文 帝 ○自分の命を犠牲にしてまで、自分を生んでくれた母親を大切にするというのは、僕には出 丁 蘭 ○不思議なことがあるものだなあとつくづく思った。母親は死んだ後、像になって丁蘭を 孟 宗 ○母を思う心が、天に届いたということなのだろうと思うけど、冬に筍が出るなんてそれは 閔 子 騫 ○どんなに差別を受けても、自分より他人を気遣って孝行を尽くす心が、今の人には大切だ。 曾 參 ○親に対して何かするというより、心が通じ合っているという話だ。物やお金をあげる 王 祥 ○嫌がらせをされても、恨まずに孝行をするなんて、すごすぎると思います。 全体的な感想としては、 ○孝行とは、親子の間に生まれる何か本当に素晴らしいものだと思う。 学生の中には、「孝行」を「考行」と書いている者がかなりいたが、総じて、ストーリーの把握も的確であり、個々の孝行譚に対する感想も、内容をよく理解した上でのものが多かった。しかし、なかには「二十四孝」の話を、孝行に関する教訓という観点から見るよりも、ただ単に古典の学習教材としてしか把握しえなかった者が少しいたようであり、これについては、今後反省すべき点だと思われる。特に印象に残ったのは、授業中の机間巡回のとき、ある女子学生が、それぞれの話を漫画化してノートに書いていたのを発見したことである。そのノートを借りて、子細に見たところ、それぞれの話のポイントをよく理解していることが明確に認められた。(図1)
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展 望---「二十四孝」から「孝女登勢」へ |
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御伽草子の「二十四孝」は、なんといっても中国の話ばかりであり、もうひとつ面白みに欠けるける憾みがある。ここはひとつ、日本の孝行譚を学ぶにしかずという結論に達したのであるが、なんといっても、世に孝子の伝記伝説は数多い。それらを集めた代表的なものとして、『日本教育育文庫 孝義編 上』(黒川真道編 日本図書センター 昭和五十二年復刻)には、『皇朝二十四孝』以下『義奴八助伝』まで三十九編を収録、同じく『日本教育文庫 孝義編 下』(黒川真道編 日本図書センター 昭和五十二年復刻)には、『本朝女二十四孝』以下二十三編と、附録として『金言類聚抄』、『鳥獸孝義伝』の二編を収録している。しかし、同じ取り上げるのなら、やはり身近な郷土の孝子にしくはない。当地方の孝子を扱ったものとしては、さきの『日本教育文庫 孝義編上』所収の『勢陽善人録』、『勢州鈴鹿孝子万吉伝』があるが、前者は、元文、寛保、明和頃の伊勢国藤堂家領内における孝義の者、善行者を集めたものであり、貧しいながらも親によく仕え、年貢等を延滞することなく、昼夜精を出してよく働くといったものばかりで、書上(上申書)の体をなしており、したがって、いささか叙述が平板である。また、後者は、伊勢国鈴鹿郡坂下駅古町の万吉の話である。万吉は、四歳のときに父に先立たれ、母も病弱であったので、六歳にして毎日街道に出て、旅人の小さい荷物などを持って僅かの賃銭をとり、夕方になると母に渡していた。このことが街道を行き来する人々の評判となり、積善の余慶空しからず、天明七年春ついに東都に召し下され、道中御奉行桑原伊予守様御役所において、ご褒美として万吉へ白銀二十枚、母へ一生一人扶持を下されることになったというものであるが、鈴鹿山の麓の街道における典型的な孝子伝の域を出ず、教材として取り上げるには、今一歩の感を免れない。
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