高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
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 ●新人校長奮戦記(283〜294P)

  よりよい学校への模索     浅黄谷剛寛  長野工業高等専門学校校長

     
 

 はじめに

 
   

  長野高専へ赴任して最初に感じたことは、学生に覇気がなく、目的意識に欠け、生活が全般に乱れていたことである。こちらから挨拶しても、一部の学生や教官から挨拶が返ってこなかったことがある。異常である。最低限度のエチケットすらできていない。それ故、かなり真剣に取り組まなければ、この状況から脱出することは難しいと感じた。

  当初、各教官を把握するために「自己評価表」なるものを作成、配布し、教官各自の性格・自己評価・健康状態・自己PR・研究等を記入してもらった。しかし、一部の人には提出を拒否され、かなりの教官からは不評を買った。これはあくまでも各教官の実情を把握したいがための行動で、悪く使う目的はさらさらない。ある教官のことを他の教官から間接的に聞くよりも、本人の申告がいちばん正確で、信頼でき、かつ素早く収集できるからである。

  1年生全員と欠席の多い2年生に面接をしたところ、これまた不協和音が入ってきた。「面接は校長がすべきでない」「担任を信用していない」という趣旨である。面接の結果、経済的に困窮している学生が見つかり、授業料免除の手続きをとらせた。これは校長面接で初めて分かったことであるが、本来ならば担任が済ませておくべきことである。よって校長面接は正しかったことの証である。また面接で多くの学生の状況が把握できたので、これからも続ける予定である。

  かように、校長が何かを知ろうとしたり、何かの行動を起こしたり、指示しようとすることに対して、一部の教官から拒否反応が示された。「校長は一年間は黙って見ているのがよい」というたぐいの進言が複数の教官からあった。もしも校長が一年間黙っていたら、その年度はひとつの進歩もない。これは教官にとっては楽なことかも知れないが、教官サイドの論理でしかない。

  私に与えられた任期中、仕事は全て教官と事務官に任せて、校長は何も指示しないで過ごすことも可能である。しかし就任に際して幾つかの課題を与えられ、使命を受けてきたので、何もしないで過ごす訳にはいかない。なかには「荒療治」の使命を受けて赴任した校長もいるが、私はそれほど強烈な使命を受けてはいない。私は前例にとらわれず、是は是、非は非で学生を中心に据えて運営するつもりでいる。とりあえず正常な状態に戻すことから始めたい。

 

   良い学校
   

 いわゆる良い学校とは学生が卒業した時に、知人や将来生まれてくる自分の子供を入学させたいと思えるような学校である。卒業後に、在学中における教官とのコミュニケーションが質的にも量的にも高く、よい記憶として残ることが大切である。

 また「その学校で教育および研究の意味を与えてくれる学校」であることも大切である。学生は当面の目標を持てることが必要で、目標がなければ自己の能力向上に対する関心は薄くなる。

 学生・保護者が学校や教官に何を要望し、何を期待しているかを的確に把握し、それに応えられる学校でなければならない。それに対して教官は期待に充分応えているかどうか、期待に応えるためにはどう努力すればよいかを前向きに考える必要がある。

 本校では将来計画委員会の下に「専攻科設置準備専門部会」等いくつかの専門部会があり、将来のビジョンの実現は各部会へ任せておけば足りる。ハード部分の整備は校長・事務部長が文部省と析衝し、予算を獲得すれば可能である。そのハードをいかにうまく使って全国屈指の高専にするかは、ソフト部分にかかっている。これは全て教職員の意識と誠意の問題につきる。

 

   学校の問題点
   

 学校の問題点はどこにあるのか。それは第1に教官、第2に学生、第3に保護者である。

 本校へ入学してくる学生は一定水準以上の学生である。従って普通に教育をすれば程々の成績を上げて、順当に卒業して、然るべき所へ落ち着けるはずである。入学時は進学目的で他の高校へ進んだ同級生たちと同じように、喜びに浸り意欲を燃やしていたはずである。その情熱を一層高めるように、かつ持統するように指導することが要訣である。ここに低学年の指導の大切さがあり、生活指導と勉学意欲とは切り離せないかかわりがある。しかし、入学して間もなく勉学意欲を失い、10代半ばの若者が急に若さを失ってしまうのが実状である。毎年50人もの学生が学年末の成績会議に引っ掛かり、その半数が退学し、残りが留年する。低学年でも呼称こそ「学生」であるが、その実質は「高校生」であることをわきまえて対処しなければならない。

 高専の教育課程についての反省も必要である。専門科目だけ与えたら、専門能力が優れているとは限らない。中等教育を正常に修了した上に専門教育を施すのが高等教育である。教室で高度な授業をやって「それで終わり」というのでは教育者としては落第である。授業内容の消化不良を避け、学生に理解させ、定着させなければならない。消化不良は勉学意欲を阻害し、生活態度にも悪影響をもたらす。教官は自分が高校生の時、今自分が行っている授業が理解できたであろうか?と反省することが大切である。低学年で特に重要な一般科目は、高校並みの授業時間が必要と思われる。

 一般科目の基礎的知識と関連し合ってこそ応用が利き、皮相の知識が割がれた後も寿命の長い真の総合能力が具わるはずである。

 卒業生のレベルを、ある線以上に維持することが高等教育の使命であると思う。また長学歴化は必ずしもいいとはいえない。高専卒業後、大学3年に編入し、さらに大学院へ進学すると、いつになったら社会人になれるのか分からない。20歳で充分な技術者として働けるのであるから「高専卒で充分である」と自信をもって送りだしたい。学生の資質を充分伸ばせられないようでは、高専教育の不備が指摘されても仕方がない。教師の側にもかなり問題があるとしか考えられない。それを学生の一方的な責任にするのは、教師としての反省が足りない。

 本校の学生の4割が学寮で生活している。寮は「教育寮」で、単に「食」と「住」を提供しているものではない。寮生がまともな生活をしているならば学校全体は安泰である。残念ながら、学生の本分を忘れた行為や事件を起こす学生が跡を絶たない。

 

   教官の意識改革
   

 教官の問題の一つは意識の問題で、教官の自発的な意識改革がなされなければならない。それが学校教育の基調の転換のなかにきちんと組みいれられる必要がある。

 学校の将来計画に対して教官全体が一体となって邁進できる環境がほしい。目標が「絵に描いた餅」で、一部の教官が必死になっても、学校全体のレベルは上がらない。各自が好き勝手なことをしていたのでは、学校は組織体としては失格である。専攻科の設置に関しても、学校全体の同意を得て、文部省に概算要求第一として提出してきた。それなのに未だに先が見えないのは組織として行動をしてこなかった証拠である。各教官はそれぞれ学校のためとして真剣に考えることはなく、各自マイペースでやっていて、自然に専攻科が設置されるような錯覚をしているのが現状である。要するに教官・学校が一体となって真剣に取り組むという姿勢に欠けている。

 

   教師の姿勢と意識
   

 教師には若さと聡明さが必要である。『杉浦重剛座談録』の逸話にこのようなことが書かれている。ある時杉浦重剛を訪れた一書生が、その庭前に枯葦原のあるのを見て、これに火をつけたら面白いでしょうといったことがある。これに対して、杉浦重剛は「わしもそう思うが、ただやらんだけじゃ」と答えた。その書生は深くその言に感じて終生忘れなかったということである。「わしもそう思う」という言葉には、いたずら書生と同じ若さにまで下りてゆける杉浦重剛の若さがあらわれている。いまこの問答の意味を考察してみると、「わしもそう思う」という共感があって、「ただやらんだけじゃ」という次の一句が、生きて働いているのである。「ただやらんだけじゃ」という表現 は、この書生に対して「われわれもやってはならない」という自覚をさせる効果を与えている。教師に「若さ」とともに「聡明さ」を要求する所以である。

単身赴任の人に対して「単身赴任は不便でしょう。奥さんはこられないのですか」という質間をする人がいる。これは料理・洗濯・掃除・整理などは女性のやる仕事だと決め付けているのである。

今や家庭科は男女必修である。家庭での役割を男と女を区別するような意識の持ち主、自分の身の回りの整理すらできない人には、生きた新しい発想の教育はできない。

要するに教官も含めて、現在の大方の親達が培ってきた社会観、価値観と子供の価値観は異なっている。将来はもっと違ってくるはずである。その新しい価値観に対応できる人間を育成しなければならない。よって教官自身の意識改革が今こそ必要なのである。

 

     担任の資質
   

 一般に高専において「学級担任」は軽視されている。担任業務は学生指導の要であり、本来もっとも重要視されるべきものである。教師は担任を生き甲斐としているのが普通で、気弱な者は担任から外されると、教師の資質がないという烙印を押されたと思い、ノイローゼになる程である。ところが高専では「担任は面倒な余計なもので、輪番で止むを得ず引き受ける」という感覚のところが少なくない。これは教官自身が「研究者」であると勘違いしているので、これではまともな学生指導・教育はできない。

 教官は遅刻と約束事を守れないのは罪悪であることを学生に知らしめるべきである。これは教官も同じである。物事をてきぱきと処理していくためには時間厳守が第一である。今日できる事は明日に回さないということが大事で、常に事前に処理をしておけば間違いない。例えば明日の試験問題がまだできていない時に、急に家族の誰かに不幸がおきた場合、事前に問題を作成しておけば何でもないものを、もろに他の人に迷惑をかけるようになる。先を見据えて行動計画を立てられなければインテリとは言い難い。いつ何どき、どんな事が起きようと、それに対処できるように普段から準備しておくことが担任あるいは教師の責務である。

 4月に学生に提出させた身上調害が6月末になっても揃わないところが数クラスあった。これは担任の怠慢以外の何物でもない。誰が提出していないかをチェックもできず、2カ月も放って置く神経では担任としての資質はゼロである。身上調書には印鑑も不要だし、十数分もあれば、HRで一斉に書かせば済むことである。休学している学生に対しても、手紙のやりとりで充分提出が可能である。それすらできないようでは、HR指導が不充分であることは自明である。

 教室の清掃の状況が分からないようでは教師としての資質が乏しい。また掃除を毎日やる必要はないという担任もいることに驚かされた。学生が掃除をしないのであれば教官自身がやり、身をもって範を示すのが教師の務めである。それが屈辱であるとか、教官のやることではないというのは間達っている。ゴミが散らかっていても何も気付かないのは、散らかす事を罪悪と感じない人間である証拠である。基本的には環境破壊に気付かない人間となる

 

     学生への対応
   

 学生指導を通して、学生の心を開き、学生の本心を見極める必要がある。学生は教官へ見せる顔と、親へ見せる顔、友達へ見せる顔と最低3種類の顔を持っている。教官は真摯に、決して嘆かず、焦らず、子供の心に少しずつでも近付くことである。それを教官全員で、学生のだす小さなサインも見逃さず、教官の間で情報交換できる体制が必要である。

学生の「性」に関する悩みを親身になって聞いてあげられる教師こそ真の教育者である。これは非常に難しいことであるので、各自でノウハウを考えて実践していただきたい。エイズの問題も含めてこれからの時代には特に重要な部門となる。

私が最初に赴任した学校は女子校だが、自分のクラスの生徒の生理日はすべて把握していた。次に奉職した学校は男女共学だが、ここではマスターベーションの指導が教師の間で論議され、指導していた。学生の悩みを解決していくためには、教師自身が学生にもっと胸襟を開かなければならない。すなわち信頼の醸成である。これができて初めて一流の教師となることができる。

学生指導は放任主義ではいけない。私の感性では全くのほったらかしとしか見えない状態であった。「高等教育は放任である」と間違った認識をしている。高等教育だから手のかかる面倒なことはしないで、自主尊重だといって紛らわしている。少なくとも3年修了までは高校並みの、きめの細かい指導を施さなければならない。学生の自主性に任せているといえば聞こえはいいが、実質は教育指導の放棄でしかない。「教育は教育の好きなものに任せておいて、自分は研究だけやりたい」的なことをいうのは、何をかいわんやである。

 

     ぬるま湯からの脱出
   

 高専においても教官に競争の原理及びモビリティも必要であると考える。大学では平成9年に任期制の法律「大学の教員等の任期に関する法律」ができて、多様な知識・経験を有する教員相互の学問的交流が不断に行われる状況を創出し、活性化を図ることが可能になった。 高専では年功序列と終身雇用制に安住している。人事は硬直状態で、極めて流動性が悪く、閉鎖性が学校を悪くしている。一度採用されれば、給与は加齢と共に上昇するため、ぬるま湯に浸かり、一般企業のように各人が評価されることがなく、マンネリ化してしまう。評価を受けることを拒む体質が教官の意識革新を阻んでいるといえる。

 キャリア20〜30年の教官よりも10年の教官が劣っているとは言い難い。若くても、やる気があって、教え方を工夫し、学生からの信望が厚く、評判もいい教官が大勢いる。こういう教官を高く評価したい。

 今後は従来のように、一定の年齢に達すれば教授や助教授に昇進させるということはせずに、教官の資質と教育指導の実績によって特別昇給や昇任を考慮する。

 自分の研究のために、たまたま、長野高専に席を置いていて「自分は本来ならばここに居るような人間ではない」とか「どこかの大学か研究所に居るのが本来の自分の姿である」という感覚では困る。そういった教官は自分の学問体系を高専生でなく大学生に教えたいという願望で非常勤にでたがる。学問研究を極めたいのであれば、授業は高専でも、発表は然るべき学会でやり、そこで光り輝き、認められるのが本来である。ある大学に非常勤に行っていたら「高専にもこんな先生がいたのか」といわれたから、大学で授業をするのはよいことだという人もいるが、安易に、非常勤講師にでかけることを正当化すべきではない。高専をPRするには、然るべき機関があり、ホームページもあり、学校要覧を配ればこと足りる。教官は14時間の時間を消化すればあとは自由というのは問違いである。他で講義する時間があるのなら、自校にその時間を当てるべきだ。外で非常勤で稼ぎ、でかけている空白の時間は学生の面倒から解放されて、いいとこ取りである。少なくとも担任は非常勤にでるべきではない。

そういう人間は然るべき大学や研究所へ自らモビリティすべきである。ここ長野高専へは自らの意志できたはずである。ならばここにいる間は、最低限度「文部教官」という自覚と誠意がほしい。単に生活の糧のために本校に身を寄せているのだとすれば、それは教育の冒涜である。

 

     おわりに
   

 いずれにせよ、現状では高専は大学と違って「研究機関」ではない。法律で「大学」と規定されている箇所では「高専」は除外される。「大学等」の箇所では「高専」も包括され、現在その部分を広げようと努力している。かといって、研究を否定するものではない。高専の教官ならば教育と研究の両立が可能である。それができないようでは無能者の烙印を押されても仕方がない。

 教官は今一度、学生に目を向けて、「自分の子供」のように思って指導し、対処してもらいたい。子供を親から預かっている以上、学生が学校にいる間は親の気持ちで接してほしい。個々の学生を充分把握していさえすれば、学校で発生するほとんどの問題は解消されるはずである。

 勉強をするだけなら通信教育の高校や放送大学で足りる。本校で学んでいる学生には、それ以外の教官の身体で与えるものがなければならない。ごく一部の教官の思い上りや誤った意識・行動によって、学校全体の足が引っ張られたり、おかしな方向へ動かされることだけは避けたい。

 以上、本校のマイナス面及び私がこれまで教官会議等でいってきたことを中心に、その一部を記した。これは私の実践に基づくもので、決して机上の空論ではない。正論である。せめて教育の場だけでも正論がとおってほしい。かといって、本校は決して「悪い学校」ではないということだけは強くいっておきたい。大方の教官は教育・学生指導・研究のご3拍子が揃って、かつまじめである。そういった教官に本校の前途の全てを託したい。

参考文献
皇 至道『現代教師の性格』光風出版1955年

 

   
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