高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
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 ●古典に寺社の縁起伝承を取り入れる(22〜37P)

  在地伝承から辿る古典文学史       大島由紀夫  群馬工業高等専門学校助教授

     
 

 緒 言--上州の豊かな文化的営みを確かめ合う

 
   

  群馬高専に着任して七年が過ぎた。「寺社の縁起伝承を文学的に考察すること」を研究課題の一つとしている関係から、群馬県内に伝存する縁起資料の調査を続けているが、その過程で、県内に古典資料が数多く存在すること、かつその殆どが眠ったままであることを知った。その一部、例えば下仁田町中之嶽神社蔵『伊勢物語』や前橋市産泰神社幣殿天井に描かれた源氏絵などについては、勤務先発行の雑誌に若干の検討を加えて紹介した。塙保己一の『群書類従』編纂と密接に関わる吉岡町華蔵寺の蔵書群も、このまま見過ごすわけにはいかない貴重な資料である。また一方では、口頭で語り伝えられ、後代になって文献に記録されたさまざまな伝承に巡り会うことができたのも幸いであった。
 上州の地において、こうした豊かな文化的営みの存したことを、授業の場で学生たちと確かめ合う機会を設けたいとの思いは日ごとに募り、《在地伝承で辿る古典文学史》を企図するに至った。高専における古典の授業は、言語教育の一翼を担いつつも、文化的基礎教養の修得に目標を置くべきだと考えるからである。
 群馬高専における古典の単位配当は、一年次−二単位・二年次−一単位である。一年次の授業内容は、中学校での学習成果をふまえて、古典の基礎的な読解・鑑賞を主としているので、二年次の授業で実施することにした。実施に際して心がけるべきは、次の三点である。

○古典・地域文化に対する興味・関心を惹起する。

○専門的用語を無理に避けることはせず、説明しながら用いる。

○原文の解釈に多くの時間を割かないようにし、梗概・現代語訳のプリントを用意する。但
し、毎時一部には必ず原文の読解を含める。

 尚、授業を補うため、課外に次のビデオを視聴する機会を設けることとする(参加は任意)。
『源氏物語の世界』示人社
『中世武士の世界』光村・アポロン
『能・狂言入門』岩波書店

 平成十一年度は、次のような内容を考えている。
 二年次必修科目『古典』一単位(半期十五回・一回九十分)

1 授業の目的と概要……在地伝承で辿る古典文学史の構想
2 上州の日本武尊伝承……記紀神話と伝説
3 上野国の防人歌・東歌……万葉集の世界
4 上州の小野小町伝承……王朝和歌の世界
5 産泰神社の天井画……源氏物語の世界
6 上州の聖者伝……仏教説話集の盛行(中世の信仰と文学T)
7 上州に鎮座する神々の伝承……神仏習合思潮の文芸(中世の信仰と文学U)
8 佐野源左衛門の忠義……謡曲『鉢の木』
9 新田義貞の盛衰……太平記の世界
10 伊勢三郎・静御前の伝承……室町物語の世界
11 潮音道海の述作……禅と漢詩文
12 上州を歩いた旅人……近世の紀行文
13 妙義山と南総里見八犬伝……近世小説の世界
14 地芝居の隆盛……歌舞伎・浄瑠璃の伝播
15 塙保己一とその周辺……国学者たちの古典研究

 現在、教材と授業予稿を作成中であるが、以下は、第7回の授業予稿である(細部の補足説明は省略した)。

 

   開 口--権力の伝記
   

 先週は、『沙石集』で語られる長楽寺の栄朝上人や山上の行仙上人の説話、また、『念仏往生伝』に収められた往生説話を取り上げ、当時の人々の信仰心や死生観について考えました。
 ところで、『徒然草』第七十三段に次のような一節があります(※本文と現代語訳をプリントで配布)。

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くはみな虚言なり。
(中略)
とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍しからぬ事のまゝに心得たらん、よ
ろづ違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人はあやしき事を語らず。
かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の
虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、よもあらじなど言ふも詮なければ、大方は誠し
くあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。

 兼好は、この段で虚言が生まれる過程や、虚言に処すべき態度について述べています。「下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人はあやしき事を語らず。」と明瞭に言い切っているのに対し、続く「かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。」はやや歯切れの悪い物言いになっています。このことについては、また後で触れますが、いずれにせよ、ここに引いた兼好の言葉は、当時の人々の間に「仏神の奇特」や「権者の伝記」が溢れていたことを示しています。
 「仏神の奇特」とは、仏や神の霊験・奇瑞のことです。今でも、どこどこのお地蔵さんはご利益があって、お参りして病んでいるところを撫でると病状がよくなるといった類の話を耳にすることがあります。兼好よりもやや時代が下りますが、室町時代の公家や僧侶の日記を見ますと、こうした仏や神の霊験・奇瑞が数多く記されています。また、室町時代の絵画に描かれた寺社の賑わいを併せ見ると、仏や神の霊験・奇瑞を信じ、その利益にあずかろうとした当時の人々(老若貴賤を問わず)の姿がそこに浮かびあがってきます。
 「権者の伝記」の権者とは、仏や菩薩が苦しみ迷う人々を救済するために、仮に人間の姿でこの世に現れたものを言います。今日は、中世に盛んに語られ、多くの人々が享受した「権者の伝記」を取り上げて、先週の授業とはまた違った視点から、中世の信仰と文学について考えてみようと思います。

 

   神仏習合思潮と本地物
   

 日本に伝来した仏教が、古来の神祇信仰と習合しつつ独自の展開を遂げながら定着したことについては、簡略ながら先週の授業の冒頭でお話ししました。身近な例として、古い家では神棚と仏壇が共存していることをあげ、西洋的(キリスト教的)な「宗教」の概念をそのまま当てはめて考えることはできないということを述べました。
 日本に仏教が伝来した当初は、古来の神々も人々と同様に仏によって救済される対象であり、時として仏に敵対する存在でしたが、やがて仏の導きにより仏教を守護する存在へと変わっていきます。さらに、神と仏は同体であり、日本の人々を救うために仏が神として現れたのだという考え方が生まれてきます。これを本地垂迹説と言います。例えば、伊勢神宮に祀られる天照大神は実は大日如来であるというように認識されるに至ったのです。この場合、天照大神の本地仏は大日如来であり、大日如来の垂迹神は天照大神であると表現されます。中世になると本地垂迹の考え方が広く定着し、以後、明治維新時に神仏分離令が出されるまで、殆どの日本人にとって神仏習合は当たり前のことであり、今日のように仏教と神道は別の宗教などとは考えもしなかったのです。
 ところで、神社やお寺に行くと、説明の看板やパンフレットに、どうしてその地にその神社(寺)が建てられたのか、祭神(本尊)は何か、その祭神(本尊)にはどのような来歴があり、どのような利益があるのか、などの縁起・由緒が記されています。自分たちの信仰する神仏にどのような縁起があるのかは、人々にとって重大な関心事であり、また、神仏の利益を説いて信仰を勧める僧侶・神人にとっても縁起は重要なものでした。そのため、昔から多くの縁起書が作られてきましたが、中世の鎌倉後期から室町にかけて、本地垂迹説に誘発される形で、新しい縁起物語の型式が生まれました。これを本地物と呼びます。
 本地物は一書として独立した寺社縁起に見られる他、室町時代の短篇物語であるお伽草子や、古浄瑠璃と呼ばれる語り物にも見られます。本地物の基本型式は、

@主人公の多くは、神仏の申し子であるなど、異常な形で人間界に生まれ、
Aさまざまな悲しみや苦しみを体験し、
B神仏の加護のもと、後に自らも神仏に転生する。

というもので、最後に本地垂迹の関係が示されます。これは、神仏の前世譚であり、神仏の霊験と信仰の功徳を説くものでもあります。Aの「主人公の受難」は物語としての聞かせどころであり、主人公が継母からいじめられたり、遍歴流浪の旅にさすらうなど、同時代の文学作品によく見られるモティーフが用いられています。その神仏が人間界において人間と同じ悲しみや苦しみを体験しているからこそ、人間の気持ちを理解し、救ってくれるのだという論理が本地物にはあるのです。

 

   『神道集』に描かれる上州の神々
   

 社本地物が記された比較的古い文献に『神道集』という書物があります。南北朝時代の十四世紀半ばに成立したと考えられています。『神道集』には全部で五十話が収められていて、そのうちの二十九話は物語性の薄い教義理論的なものですが、残りの二十一話は本地物の型式に基づく縁起物語です。注目すべきは、縁起物語二十一話のうち、上州・群馬県の神々の物語が七話もあるということです。隣の信州・長野県の諏訪神社関係の話も三つ収められており、上信地方を活動の拠点としていた宗教者が成立に関与したのだろうと考えられています。
 上州関係の物語縁起七話のタイトルと関係する神社(中心となる神社で現存のもの)は次のとおりです(※プリント)。

第三十四話 上野国児持山の事……子持村・子持神社
第三十六話 上野国一宮の事……富岡市・貫前神社
第四十話 上野国勢多郡鎮守赤城大明神の事……宮城村・赤城神社
第四十一話 上野国第三宮伊香保大明神の事……伊香保町・伊香保神社
第四十三話 上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩の事……宮城村・赤城神社
第四十七話 群馬桃井郷上村内八ケ権現の事……榛東村・常将神社
第四十八話 上野国那波八郎大明神の事……諸説あって確定していない

 

   赤城大明神の縁起物語
   

 それでは、私たちが毎日目にしている赤城山に鎮座する赤城大明神の場合を例として、神々の縁起物語を具体的に見てみましょう。部分部分原文の読解を交えながら、あらすじを読みます。(※原文の抄出と梗概はプリント配布、本稿では原文は割愛する。)
 履中天皇の時代、高野辺左大将家成という栄達をきわめた公卿がいた。無実の罪を着せられて流罪となり、奥方と共に上野国勢多郡深栖郷(現在の粕川村深津)で年月を過ごすうち、若君一人・姫君三人を儲けた。若君は成人して十三歳になると都へ上り、仕官を許される。三人の姫君は田舎で両親と共に暮らしていたが、それぞれ十一・九・七歳の春、奥方は三十八歳で亡くなった。悲しみの中、さまざまな供養がなされた。
 その年の秋、家成は信濃国更科郡の地頭・更科大夫宗行の娘を後妻として迎える。後妻との間にも娘が一人生まれた。この継母腹の娘が三歳になった年、家成は許されて都へ上り、上野国司に任命される。家成は都で、先妻腹の三人の娘の婿を公卿の中から選び、娘のそれぞれの乳母へ使いを出して知らせる。これを聞いた継母は、家成が先妻腹の娘たちばかりを可愛がっていると嫉妬し、実弟更科次郎兼光を語らって、三人の姫君の殺害を企てる。
 長女淵名姫は、淵名次郎家兼を後見として淵名荘(現在の佐波郡境町渕名)に住んでいた。次女赤城姫は、大室太郎兼保を後見として大室(現在の前橋市大室町)に住んでいた。三女伊香保姫は、群馬郡の地頭伊香保大夫伊保を後見として有馬(現在の渋川市有馬)に住んでいた。更科次郎は巻狩りの折に、淵名次郎と大室太郎を捕らえて赤城山中の谷で殺害し、淵名の館へ攻め寄せて淵名姫と乳母を捕らえ、利根川に沈めて殺害する。続いて、大室の館へ押し寄せる。赤城御前と乳母は赤城山中へ逃れるが、乳母は途中で息絶え、赤城姫は赤城沼の龍神に導かれて赤城沼へと消える。その後、更科次郎は伊香保大夫を攻めようとしたが、守りが堅固で攻められなかった。よって、伊香保姫は無事であった。
 家成は都から上野国へ戻る途中でこのことを知って嘆き悲しみ、深栖の館に帰るとすぐに淵名姫が殺された場所へ出かける。すると、川の中から淵名姫が、赤城山からたなびいた雲の中から赤城姫が現れ、それぞれ父家成に別れを告げて消える。家成は二人の娘の跡を追うように利根川へ身を投げる。伊香保大夫は急ぎこのことを都にいる若君(その時は中納言になっていた)へ知らせる。中納言は軍勢を率いて上野国に帰り、継母・淵名次郎とその息子二人を捕らえる。淵名次郎の二人の息子を斬罪に処し、更科次郎を川へ沈めて殺した。継母へも報復しようとするが、継母腹の妹のことを思い、殺さずに信濃国へ追放する。継母の両親は信濃国司(中納言の義兄弟)によって殺害される。継母は甥の更科十郎家秀を頼るが、家秀は一族が命を失ったのはこの人のせいだと思って、伯母である継母とその娘を更科山の奥へ捨て去る。二人は山中で雷に打たれて死んでしまう。このことがあってから更科山を伯母捨山というようになったのである。
 さて、中納言は父と淵名姫が亡くなった所へ社を建てた。淵名明神がこれである。赤城姫は赤城沼の龍神の跡を継いで赤城山の神となった。中納言は赤城山の大沼と小沼にも社を建てた。伊香保姫は、兄中納言の奥方の弟高光を婿とし、高光と伊香保姫は伊香保大夫を後見とし、協力して上野国司の任にあたり、中納言は都へ戻った。
 以上のような内容です。本地物としては変則的で、ここでは本地垂迹の関係が語られませんが、同じく赤城の神について述べる第四十三話において、大沼の赤城明神の本地は千手観音、父高野辺家成は小沼明神となり本地は虚空蔵菩薩である記されています。最後の方で姥捨山の地名起源を語るのは、物語享受者へのサービスでしょう。中世の説話・物語にしばしば見られる(継子いじめ)のモティーフを基軸としていますが、筋の展開は次のようにまとめることができます。

 父の流罪(貴種流離) → 若君・姫君誕生 → 実母他界 → 継母登場 → 父・若君の不在
 → 継母の奸計(姫君の受難) → 姫君の他界(成神) → 父の他界 → 若君による報復
 → 栄華の獲得

 この筋の展開パターンは、室町時代の物語や芸能作品に類似するものが多くあります。このようなパターンが人々に好まれて享受されていたということでしょう。貴種流離のモティーフについては、第4・5回の授業で説明しましたね。更科次郎が淵名・大室の館に押し寄せて淵名姫や家臣たちを殺害する場面や中納言による報復の場面は凄惨をきわめます。これは、領主間の血なまぐさい争いが絶えなかった当時の世相を反映しているとも考えられましょう。

 

     血縁性と地縁性
   

 この話の次の第四十一話で、伊香保姫も伊香保大明神という神になります。淵名姫・赤城姫・伊香保姫だけでなく、それぞれの後見人たちも神となります。つまり、神々が前世(人間界)において血縁関係・主従関係にあったというのです。これを系図のように示すと図T(次頁)のようになります。『神道集』所収の縁起物語においては、各話ごとにこのような系図を作ることができます。その土地々々の神仏を、前世において血縁・主従関係にあったと説明するのは、血縁性・地縁性をもって結束を固めようとする村落共同体の志向と呼応します。「村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭り日……」という歌がありますが、つい最近まで、日本の村落社会では、ムラの鎮守である神仏を中核として共同体を保持してきました。
 赤城・伊香保の神のように、それぞれの土地において独自の空間領域をもつ神々を『神道集』ではさらに血縁関係などによって結びつけています。『神道集』の各話を総合してみると、上野国の一宮から九宮までの神々の関係は、図U(次頁)のように示すことができます。これを見ると、上野国の神々は、隣国の日光権現(栃木県)や諏訪大明神(長野県)との関係にも配慮しつつ、血縁性を中心に秩序づけられ、神々の一大世界を形成しています。これは『神道集』という書物の上のことだけではなく、人々を信仰へ導くために活動した宗教者の動静やそれぞれの神仏の信仰圏の関わりなど、当時の神仏を取り巻く状況を反映していると考えられます。

 

 中 世 神 話
 群馬県内には、『神道集』に収められた赤城大明神の縁起物語とほぼ同じ内容をもつ『赤城山の本地』『赤城大明神縁起』などと題されるテキストが数多く残っています。それらは江戸時代の十八世紀から十九世紀半ばかけてに書き写されたものです。「ほぼ同じ」と述べたのは、テキストによって筋が改変されたものがあるからです。十四世紀半ばに記された縁起物語が改変を加えられつつも十九世紀に至るまで書き写されて伝えられたということは、赤城の神を信仰する地域の人々の間に、中世から近世にかけてこの縁起物語が確かに息づいていたことを示しています。テキストが多くつたえらているのは、赤城山を源とする粕川や荒砥川の流域、すなわち赤城山南麓です。この地域には大小さまざまな赤城の神を祀る社が今でも点在しています。
 自分たちが信仰し、地域の共同体の核となっている赤城の神は、どうしてそこに棲みたもうているのか、どのようなご利益があるのかなど、自分たちの生活をある時は支え、ある時は縛る神のことを、人々はこの縁起物語によって理解しようとしたのでした。第2回の授業で述べましたが、神話を「モノ・コトの由来を説明し、現在を秩序づけるもの」と大まかに捉えるならば、『神道集』に収められた赤城大明神をはじめとする神々の縁起物語は、まさしく中世の神話と呼びうる機能を担っていたと言うことができましょう。神の前世を語る物語において地名を多く記しているのも、物語を享受する人々の生活空間が、神の護りたもう空間であることを示しているのです。ある土地に名をつけるということの意味については、第2回の授業で既にお話したとおりです。
 本地物と呼ばれる縁起物語が、中世の神話として機能していたことを述べましたが、古代の神話と大きく異なるのは、神々が前世において人間界のさまざまな憂悲苦悩を体験しているとしているところです。このことについて、『神道集』は次のように記しています(※プリント)。

  諸仏菩薩の我が国に遊びたまふには、必ず人の胎を借りて、衆生の身と成りつつ、身に苦悩を受けて、善悪を試みて後、神明と成りて、悪世の衆生を利益したまふ御事なり。
      (第三十四話)「上野国児持山の事」)

  諸仏菩薩の我が国に遊びたまふには、神明の身を現はして、まづ人胎を借りつつ、人身を受けて後、憂悲苦悩を身に受けて、苦楽の二事を身に受け、かりそめの恨みを縁として、済度方便の身と成り下りたまへり。
                (第四十八話)「上野国那波八郎大明神の事」)

 先にも述べましたように、仏・菩薩が日本へやって来て、一度は人間として生まれ出て、迷い苦しむ人々と同じ体験をした上で、人々を救済するために神となって現れたのだというのです。
 現代の私たちはこうした縁起物語を文献を通じて享受するわけですが、当時は宗教者たちが人々に語って聞かせていたものと考えられます。中世の人々はこのような縁起物語に心を深く揺り動かし、それを支えとすべく、繰り返し繰り返し耳を傾けたことでしょう。

 む す び
 中世という時代には、上野国の神々だけでなく、全国各地の神々にもそれぞれに本地物型式をもつ縁起物語が存在していたと考えられます。神の前世譚としての縁起だけではなく、霊験・奇瑞譚もそれに付随して語られていたことでしょう。「仏神の奇特」「権者の伝記」が満ち溢れていた時代だったのです。
 さて、授業の初めに触れた『徒然草』の話に戻ります。「よき人はあやしき事を語らず」と明快に断じる一方で、「かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。』と歯切れが悪くなり、『偏に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。」とこの段を結ばざるをえなかったのは、当代きっての知識人であった兼好もまた、中世という時代に生きた一人の人間であったということなのでしょう。

   
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