高専実践事例集V
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1998/12/20発行

   


  
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  3. 悩み抜いて出口みつける

 

 ●学級担任の目から(179〜192P)

  揺れる心―アイデンティティを求めて  久松俊一 木更津工業高等専門学校教授

     
 

 はじめに

 
   

 私が高専に来てからもう一五年経とうとしている。当初、高専についての予備知識もなく、五年制の技術者教育を行う高等教育機関ということで、年齢層は少しずれるが、大学と同じようなつもりで高専に来たのである。この予想は、半ばは当たり、半ばははずれていたと言える。
 当たっていたというのは、一人前の技術者として学生を社会に送り出すことを教育目標としているという点で、大学と同様、完成教育ということである。事実、過密とも言えるカリキュラムは実にハードであった。専門教育に比重がかかる分だけ一般教育が圧縮され授業時間数が少ないということはあるが、しかし、学生を教養ある市民に育てるということでは大学の教養教育と変わるところはない。少ない時間の中でどのように授業を工夫するか、知識の量ではなく、ものの見方・考え方、論理的思考力や判断力などをどのように身に着けさせることができるか、これは私たち自身の問題である。
 他方、予想以上というか、思いもかけなかったのは、学校行事やクラブ指導、生活指導、学級担任といった学生指導にかかわる仕事がきわめて多いということであった。しかし考えてみればこれもしごく当然のことと言うべきであろう。中学を卒業したばかりで入学し、五年間を高専で過ごす若い学生たちが相手なのだから。後に研究集会などで全国の先生たちと会う機会が多くあったが、「高専の教師は、教育と研究の両方をこなさなければならないのだから、スーパーマンでなければ勤まらない」と愚痴ともとれる声がよく聞かれた。実際その通りかもしれないと思う。
 高専の教師は、高校の教師と大学の教師の両方を兼ね備えねばならず、教育と研究を統合しなければならないのだから大変である。六・三・三・四制という画一的な戦後教育体制の中では高専は鬼っ子的存在で、絶えず高校と大学とへ引き裂かれ、高専の内部でも常に教育志向型と研究志向型への分裂をはらんできたのは事実である。ここから高専制度を解体すべしという否定的な議論もよく聞かれた(さすがに近年画一的な学校制度の見直しが始まり、中高六年一貫教育などの実施もあり、こうした極論は聞かれなくなったが)。
 私は、高校でもなく大学でもない中途半端な学校といったネガティヴな見方ではなく、戦後の学校体系という枠組みをすべて取っ払って、端的に、高専自体を見ることが必要だと常々思ってきた。一切の予断を排し、教師の都合などを一切除外して高専という学校を見てみると、そこには、一五歳から二〇歳という、思春期から青年前期の春秋に富んだ若者たちの姿が浮かび上がってくるのである。彼らは、心と身体の成長のアンバランスに右往左往しながら、大人への条件を獲得していくという人生でも最大の精神的変容を経験せざるを得ない時期にある若者なのである。高専での五年間とは、学生たちにとっては、アイデンティティの模索と発見の旅なのである。そして、こうした若者たちと何らかの形で関わることが出来るとすれば、それは教師にとっても素晴らしいことではないだろうか。
 私はこの一五年間、いろんな形で学生たちと関わってきた。だが、彼らとの間にもっとも精神的に緊張した関係を経験するのは、学級担任においてである。ここにいくつかの事例を通じて、若者たちの姿を紹介してみたい。

 

   揺れる心
   

 私はこれまで担当授業との関係で、学級担任は一学年と三学年を数度ずつ経験している。そしてこの学年は、高専の五年間の中でも大きな節目になる学年であると思われる。一年生というのは、中学とは全く違った環境の中で、学業や生活の面で適応できるかどうか、という重要な時期であることは言うまでもない。三年生というのは、自分の将来の進路や生き方を決める時期であり、否応なしにアイデンティティの確立を迫られる。いずれにしろ一年生と三年生とは、彼らの心が大きく揺れる学年なのである。
 私が初めて三年生の担任をもったときは、43名のクラスであった。この内、ストレートに三年まで進級してきたのは、32名だけであり、8名は二年の時一度留年を経験しており、前年度の三年で留年したのが二名、休学してアメリカに留学し帰ってきた学生が一名、つまりクラスの四分の一がこれまでに何らかの挫折を経験していたのである。(なお、この直後に低学年の進級規定を変えたために、これ以降は一、二年生の段階での留年者は大幅に減った)。そしてこの年の修了時には、進路変更して高専を去った学生が四名(その内3名は、三年までストレートに進級してきた学生である)、留年した学生が3名(その内一名はかつて留年を経験している)、学年途中で休学した学生が一名であった。
 煩瑣をいとわずこうした数字を挙げたのは、この時期が大きく揺れ動く時期であることを示したかったからであるが、しかし、この数字以上に、私は多くの学生の不安・焦燥・苦悩をつぶさに目撃することになったのである。

 

   自信を失う
   

 前年度留年したO君が私を教官室に訪ねてきたのは、新学期の始まる前の春期休業中のことであった。彼は退学するかどうか迷って相談に来たのである。まだ親には話していないが、もう一年勉強しても進級できる自信がないと言う。土木建設業の父親の大きな期待とそれに応え得ない自分の能力に限界を感じていたのであった。私はもう一年チャレンジするように励まし、また、勇気を持ってお父さんと話し合うようにと話した。その後私は彼の父親とも話し合う機会を持った。そして結局彼はもう一年頑張ってみるということになったのである。
 その年、彼は一単位も落とすことなく、クラスの中位の成績で三年を修了し、あとはすんなりと四、五年をクリアして卒業していったのである。卒業の直前に父親が見えて、息子は甘えるといけないので同業の他企業に就職させました、将来は後を継いでもらいたいと思っています、と嬉しそうに話された。私は、こうした父親だからこそ、たった一度の息子の危機に、もっとも適切な対応をされたんだなと感じたのである。
 O君の場合、たまたま一年の時の私の授業で、悪い印象を持っていなかったことが幸いして、事前に相談に来てくれたのであったが、私は他の学生たちもいろんな悩みを持っているのではないかと思った。そうした個々の学生の状況をキャッチ出来なければどうにも対応のしようがないということに思い至り、新学期が始まるとすぐ、放課後一人一人の学生と面談をすることにした。面談と言っても、ほとんどはコーヒーを飲みながらの雑談と言ったもので、私自身も彼らとのおしゃべりは楽しかったのである。
 私が心がけたのは、かれらがいつでも気軽に教官室に遊びに行けると思ってくれればよい、そうすれば、何か悩みや相談事があるときにも私のところに来てくれるだろうということであった。そしてこの年、私の教官室は彼らの訪問で賑わうことになったのである。

 

   大人への条件
   

 二年生で一度留年しているS君の場合、六月頃から欠席が目立ち始めた。留年経験者にはいつも注意を怠らなかったので、彼の場合にも何度となく部屋に呼んで話した。どちらかというと鈍重な感じで口の重い彼は、私の注意に対してもその都度素直にうなずくだけでまったく要領を得なかった。夏休みがあけ九月に入っても彼は姿を見せなかったのだが、そんなある日、私の部屋にひょっこり現れ、唐突に、休学したいと言ったのである。私が問いただしていくと、気が優しくいつものはにかんだような表情を浮かべたまま、ポツリポツリと話し始めた。
 それによると、友人から相当な額の借金をしていて、その返済のためにアルバイトをしているが、まだ残額があり、休学して働いて返したいということであった。これで彼のこれまでの欠席の理由がわかった訳だが、この数ヶ月間悩んだ末に追いつめられて、私に相談に来たのであった。そして、こんな事情は親にはとても話せないと言う。私は、自分の不始末を自分で処理しようという彼の気持ちを了解し、また、休学する以外に方法がないということも認めた。ただ、そのためには親に話すということが前提であると話した。
 彼の父親には会ったことはなかったが、彼の言葉によると、真面目で厳格な父親であると言う。確かに父親の反応は予測し難いが、ここで逃げてはS君自身が駄目になってしまうと判断し、言葉を尽くして説得した。もし最悪の状況になったら私がお父さんと話し合うから、ここは勇気を持ってぶち当たれ、と励ましたのだが、結局この日は彼は曖昧な返事しかしなかった。
 一週間位経って、彼はすっきりした感じで私を訪ねてきた。父親と話し合って、休学を認めてもらったという。友達への借金は父親が立て替えて支払い、アルバイトしてそれを父親に返していくことになったということであった。この数日、彼は迷いに迷った挙げ句、ついに決心して父親に話したのだろう。彼は山を乗り越えたのだ。我々大人にとっては大したことではないようなことだが、彼にとってはどれほど深刻な問題であったか、そして彼はそれに正面から向き合ったのである。
 その後彼は、三年で一度、四年で一度留年し、九年かかって高専を卒業した。彼は自分で納得できなければ次に進めないタイプの学生で、四、五年には彼をよく理解してくれた専門学科の先生とも出会い、持ち前のねばり強さでついに高専を卒業したのであった。職場では、その人柄と確かな技術で高い評価と信頼を受けて、今では会社の中核を担うに至っている。
 どのような形をとるにしても、親との対決ということが大人への条件であるとすれば、O君にしろS君にしろ、父親と正面から向き合ったときに精神的に大人への第一歩を踏み出したのだと、私は思う。
 この二人を含めて、私が担任を持ったときにすでに留年を経験していた10人の学生は、進路変更した一人を除いて、数年後、すべて高専を卒業したのであった。その中には、何度も部屋に呼んで話し、また何度も母親とも話し合い、なんとか四年に進級できた学生もいる。卒業式の日、母子二人から「無事卒業できました」と挨拶を受けた。教師をやっていてよかったとつくづく感じるのはこういう時である。

 

   進路に悩む
   

 相談に来た学生たちで一番多いのは、言うまでもなく進路についての悩みである。比較的早い時期から相談に来た学生が多い。この年、最終的には四人の学生が方向転換して高専を去っていったのだが、それ以外にもぎりぎりまで悩んだ学生も何人かはいたのである。まず、四人の学生であるが、英語を勉強したいという女子学生一名、自動車整備士のための専門学校にいった学生が二名、文系の大学に進みたいという学生一名である。彼らは夏休み前から話しに来ており、前期が終わる頃には親の了解も取っていた。
 彼らが悩んだのはおそらく前年度の二年生の時で、すでにこの頃には結論を出していたと言うべきであろう。私に出来ることは、彼らの方向転換がスムースにゆくように助言や援助をすることだけと言ってよい。彼ら以外では、少し異色であるが、オフロード・レーサーのライセンスを持っていてレーサーの道に進みたいという学生や大学の建築学科に進みたいといった学生であった。
 レーサーとしては相当な技量を持っているらしいW君の場合は、母一人子一人の家庭で、苦労して育ててくれた母親のことを思うと、高専を中退して先行き不安定なレーサーになるとはなかなか言い出せないで悩んでいたのである。将来、趣味として続けてはなどといくつかの選択肢について話したりしたが、彼の場合ははるかに自覚的なものであって、職業としてどちらを選ぶか、というものであった。そして、プロのレーサーとなるためには年齢的にはぎりぎりで、今決断するかどうかという切迫した状況にあったのである。こうした場合、第三者たる私に言えることは、お母さんと相談すること、その上で自分の責任において決断する以外にないということであった。母親の希望は、高専だけは出てほしい、その後は自分の好きなことをしていいから、というものであった。それから数ヶ月間、彼は母親とも何度も話し合い、悩みに悩んだ。
 学年末に近づいた頃になって、彼がやって来た。このまま高専に残ることに決めました、と言った。私が、好きな道を断念したことでお母さんを恨むようなことはないだろうな、と念を押すと、彼はすがすがしい笑顔できっぱりと、自分で決めたのだから大丈夫です、と答えた。それは一個の自立した人間の決断であると私には思えた。彼のこれからの人生にとって、この選択が良かったのかどうかは誰にもわからないことだが、やさしさと思いやりにあふれた彼のこの選択、この決断の一瞬を私は美しいと思ったのである。
 建築学科へと望んでいたもう一人の学生も、迷った末に結局転身を諦めたのであった。

 

   自分を探す
   

 高専に来て二年目に初めて一年生の担任を持った。初めての担任でもあり印象も強く、彼らの中には卒業して結婚した現在でもつきあっている学生も何人かいるほどである。
 このクラスに他の学生に比べて早熟な感じのするK君がいた。秋の学園祭には、クラス企画のビデオ映画で主役を演じたりして、とり立てて変わったところはなかったのだが、十一月頃から時々学校を休むようになった。親に電話すると、いつも通りに家を出ているというのである。その都度、彼を呼んで聞いてみると、近くの川の土手で一日中ぼんやりしていたとか、やみくもに田圃道を歩き回っていたとか言う。だんだん話し合っていく内に、本当は小説を書いたり詩を作ったりしたい、高専に来たのは間違いだったのではないか、と話すようになった。こうして、時々教官室で彼と小説の話などをするようになった。
 正月休みが終わった最初の日の朝、母親から連絡があり、K君が家出をしたと聞いた。すぐに彼の家に行くと、書き置きがあって、働きながら一人で考えたいということと、高専に退学届を出しておいてほしいと書かれていた。また、早朝に東京のどこかの駅らしい雑踏の中から、必ず帰るから心配しないでほしい、また決して探し回ったりしないでほしいと、電話があったそうである。
 両親は少しうろたえた様子ではあったが、息子から電話があったということもあって、比較的落ち着いていた。彼の突然の家出は両親にもまったく予期しないものであったし、勿論私にとっても予想だにしていなかったことであった。
 最初の頃には、頻繁に彼の家を訪ねて、母親を励ましたりK君のことを話したりしていたが、一〇日経ち一ヶ月経っても彼は帰ってこなかった。両親と相談して、警察に捜索願いを出し、学校の方はとりあえず休学扱いにして、とにかく彼からの連絡を待ったのである。
 そうしている間にその年度も終わり、そして新学期が始まっても彼は帰ってこなかったのである。ただ、月に一度位、家に無言電話がかかってきた。すぐに気がついて、母親が「00でしょう」と名前を呼んでも、無言のまま電話が切れるということが続いた。これは「お母さん、僕はちゃんと生きているよ」というメッセージであった。と同時に、一言もしゃべらないというところに、K君の強い意志と自制心が感じられた。
 もうすぐ帰るよ、という連絡があったのは、十月近くになってからで、それからまもなく彼は家に帰ってきた。信州のペンションで働いていたそうである。その後、正式に退学届を出し、翌年四月、近くの私立高校に入り直した。高校では、クラスの生徒たちから信頼される存在になった。高専ではあれほど苦手だった物理なのに、ここでは皆、僕に聞きに来るんだよ、と言って笑っています、と母親は嬉しそうに私に話したものである。
 K君に対しては、私はほとんど何の手助けも出来ず、その悩みの深さにも気付かず、従って家出という思い切った行動をするとはまったく予想出来なかった。しかし、彼は自分一人の力で実に見事に立ち直ったのであり、その精神的な強さには驚くばかりである。彼は九ヶ月の旅を経て、精神的に自立した人間として戻ってきたのである。
 K君のような例は希有ではあるが、いろんな形でもがき苦しむ学生はかなり多い。私が担任をしたどのクラスにも、常に一人、二人は深刻な悩みをかかえていた。彼らの発する信号をどれだけ早く、正確にキャッチできるかどうかが大切なのだと思う。

 

   おわりに
   

 高専では中学を卒業してすぐに将来の進路を決める訳だから、入学後に自分の適性や将来に疑問を持つ学生が少なからずいることは、ある意味では仕方のないことである。その多くは一、二年生の頃から悩みはじめ、三年生になって決断を迫られるという場合が多いのである。四、五年生になってようやく本当に自分のしたいことがはっきりしてきて、方向転換を図るということもたまにある。
 五年卒業後、大学の経済学部、経営学部や社会学部などに無事編入していった学生は、私が関わっただけでも六、七人はいるのである。ただ彼らの場合には、三年生までと異なり、目的意識がはっきりしており、成績も悪くない学生が多いので、私は情報を提供したり具体的な助言をしたりといった形で関わるにすぎない。
 社会全体が豊かになり、高学歴化が進み、青年期のモラトリアムが延長してきていると言われる現在、一五歳で進路を決めるのは無理ではないかという理由で、制度としての高専に疑問を投げかける声もある。
 しかし私はそうは思わない。数学など理系の能力はできるだけ早い段階からトレーニングを積み、その可能性を引き出すことが大切であるということは周知のことである。また、実際にものを作ったり操作したりする事から始まる技術者教育を、早期に行うことにも大きな意義がある。事実、八割以上の学生は、学問や仕事と無縁の受験勉強を強いられることなく、自分の適性や能力を伸ばして、一人前の技術者として巣立っていくのである。問題があるとすれば、三〇年以上の歴史を経た高専において、未だ早期技術者教育のプログラムが確立していないことであり、また、そのためのよく考え抜かれたカリキュラムが無いことであろう。しかしそれは制度の問題ではないのである。
 こうした早期技術者教育の意義という以外にも、高専の五年間というのは教育上大きな意味があるように思われる。いまや卒業間近になっても進路もあやふやといった大学生が多いと言われる時代である。これに対して、高専の五年間は、学生一人一人が否応なしに自らのアイデンティティを見つけていくことを迫られる過程である。
 プライバシーのこともあって本稿では触れることが出来なかったが、家庭内暴力や対人恐怖症といったすさまじい葛藤を経て、二年も三年もかかってそれを乗り越えていった学生も何人か経験してきた。たいていの場合、私はカウンセラーと協同しながら彼らに対応してきたのであるが、例外なく彼らに共通していたのは、これまでずっと「よい子」であったということである。だから、親たちは子供のあまりの変貌におろおろしたり、時には母親の方が追いつめられて母子心中まで考えてしまうことすらあったのである。
 このように過激な形態にまで至らないにしても、悩み苦しむ学生は多いのである。それは、中学を出てすぐに、進路を決めざるを得ないということから生じる葛藤であることが多い。しかしこれは決して否定的なことではないと思われる。
 人生や将来についてのそうした悩みこそが貴重なのではないだろうか。

 

   
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