高専実践事例集U
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

   


  
こんな授業をやってみたい

   
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  1 いきいきした先生たち

 

 ●一般特別研究(38〜53P)

  素人が挑戦する「たたら」製鉄から日本刀への道   五十嵐譲介
                                                  木更津工業高等専門学校助教授

     
   

  「一般特別研究」(以下「特研」と略)とは、第3学年必修で、週1時間、1講座十数人の少人数に対し、一般系の教師が自分なりのやり方で、ものを学んでいく方法とか基本的姿勢を学生に伝授していこうという、木更津高専独自のカリキュラムである。

 私は、国語の教師であるが、これまで特研のテーマに、自分の専門と関わるるものは敢えて選んでこなかった。その理由は、国文学的テーマに関心を示す学生が少ないこともあるが、自分の専門的テーマだと、どうしても上から教えるという形になりがちなので、それを避けたかったためである。自分にとって未知の分野を学生と一緒に学んでいきたい。そして、学ぶおもしろさを一緒に味わいたい。というのが特研をやるにあたっての私の基本姿勢であった。しかし、実際は、自分で本当に心を傾けてやれるテーマを掴み取るのは難しい。まさに自分の主体性が問われる。この4年間それなりにこの特研をこなしては来たが、ものを学ぶ方法やおもしろさを学生に伝授できたのかと問われれぱ、内心忸怩たる思いであった。だが、5年目の平成7年度において、ようやく自分なりのテーマを打ち出すことが出来たと思う。それが、表題のテーマである。

 

   特研「たたら」の目的と夢
   
 

 「たたら」製鉄とは、古代日本が生んだ、非常にすぐれた製鉄技術である。現代の製鉄法は、鉄鉱石を熔融し銑鉄を造り、それを鋼に変えていくという間接製法である。それに対して、吉代の「たたら」製鉄は、砂鉄を炭で直接的に還元して鋼を造るため、不純物が少ないすぐれた鋼を造ることができたのである。この鋼を「玉鋼」といっている。世界に誇る日本刀の材料は、この玉鋼であり、これがなければ日本刀は作れないのである。この日本の「たたら」製鉄は、6、7世紀に始まり、江戸時代に隆盛をみせ、明治に入り西洋の近代製鉄法に押されてだんだん衰微し、ついに大正の末にはほぼ絶えてしまった。現在、日本刀の材料を確保するため、日本刀剣美術保存協会により、出雲地方の「日刀保たたら」(昭和52年に島根県仁多郡横田町の鳥上木炭銑工場内に戦時中の「靖国たたら」を修復したもの)で年に一度だけ細々と操業されているのみである。この特研は、「たたら」製鉄の復元実験が中心となる。文化祭の時に実験を行う予定である。文化祭前までは、「たたら」製鉄の原理の理解、技術史の文献調査、「たたら」で使う道具類の復元作業、一連の作業の記録等の活動をやっていく。(中略)

 日本の古来より、「たたら師」という特殊技能者集団によって受け継がれ、近代になって絶え果てたも同然になってしまった「たたら」製鉄技術。それは、砂鉄と粘土と炭火によって造られた世界一の「鋼」であった。この鉄造りの中には、古代人のとてつもない努力と苦労、神技に近いような知恵と工夫が込められている。すぐれた「玉鋼」を造り出すことは、非常に難しい。だが、難しいからこそ、それに挑戦し、少しでも古代人の知恵と工夫に近づきたいと思っている。志のある者よ、来たれ。そして、世界一の「玉鋼」を共に造ろうではないか。


 これが、「特研履修ガイド」の案内文である。こんな大風呂敷の案内に、17名の学生が希望してきた。この特研でやる内容は、「たたら」製鉄復元実験である。実験を実践するための準備、実験及びその記録、実験後のまとめ、この3つの作業を通して、物事を成し遂げる難しさとおもしろさを体験してもらいたい、というのがこの特研の目的である。これに加えて、私自身の夢がある。それは、江戸時代から現代にいたる刀匠の誰もが作り得なかった古刀(江戸以前の刀)を復元してみたいということである。

 日本の鉄は、不思議なことに、時代が古ければ古いほど不純物が少なく良いものなのだそうである。刀で言えば、江戸時代の刀より室町、室町よりも鎌倉、鎌倉よりも平安のものの方が、すばらしいのだそうだ。江戸300年の刀匠達は、なんとかして江戸以前の古刀に近づこうと苦心してきた。しかし、誰一人成功しなかった。現代に至るもそうである。それは恐らく、鍛冶の技術の差よりも、材料である「玉鋼」の品質の違いからくるのではないかと考えられる。江戸時代に初めて、「玉鋼」の大量生産方式が登場、確立したのである。この鋼の作り方の違いによる鋼の品質の優劣が、そのまま刀の品質に響いているのではと想像される。よって、古刀を復元するには、江戸の大量生産の方式の鋼では駄目で、江戸以前の小型炉(野だたら)による少量高品質の鋼を作るしかないのではと考えられる。

 そんな鋼を作って、その鋼で古刀のような刀を打ってみたいというのが、私の夢なのである。しかし、いくらなんでも、世界一の「玉鋼」が簡単に出来るとは思っていないし、ましてや、出来た鋼で刀を打つのがどれだけ難しいかも分かってはいるつもりだ。でも、自分では、結構本気なのである。「人は実現可能なことのみを考える」とは、マルクスの言葉だそうだが、それを自分なりに変えて、「持ち続けられる夢とは実現可能なものなのだ」との思いを学生に伝えてみたい。いや、なによりも自分自身でどこまで行けるか、実証してみたい。これが私の特研にかける夢である。

 

   特研「たたら」に至る経過
   

  私は軽はずみな人間であるが、なんの予備知識や準備もなしにこのテーマを取り上げたわけではない。本校では以前2回、「たたら」製鉄実験が文化祭で行われている。この実験経験を受け継いで、平成6年度の「文化祭」において、古代「たたら」製鉄復元実験を学生有志と共に行った。この貴重な体験から、「たたら」を特研テーマに取り上げてもやれるとの手ごたえを得たのであった。この平成6年度の作業が一番きつかった。それを簡単に説明する。

4月 有志学生の募集に8名の学生が参加。文化祭企画に申し込み、実験場所の了解をとる。

5月 基本文献資料調査と読み合わせ。実験現場小屋と炉床作りの基本設計をする。 「たたら」実験の何人かの先行者に問い合わせをする(八戸高専、愛知県立豊川工高)。栃木県氏家民俗資料館にたたら炉の見学(私だけ)に行く。

6月・7月現場整地。工場裏の草茫々の荒地。低地で粘土層のため水はけの悪い最悪の場所。5メートル四方を草取り整地する。二間四方の実験小屋を作るため、半間ごとに足場丸太を埋めるための1メートルの穴を掘り、丸太の柱を立てた。柱に横木の丸太を番線で結びつけ、それに波板トタンを打ち付けて囲いを作った。屋根を付けると下からの炎で危ないので、シートをかぶせて雨よけとした。夏休み前にようやく実験小屋が完成。また、夏休みの始めに、学校のトラックで外房の千倉海岸まで砂鉄を採りに行った。学生3名。約400キロ採取する。

8月 炉材用に荒木田粘土を注文する(炉を作る釜土は珪酸を多量に含んだ粘土がいいのだが、千葉県にはそんな粘土がないので、土壁用の荒木田粘土で代用した)。

9月 炉床作り。小屋の中に、一間四方、深さ1メートルの穴を掘る。ところが雨の日の翌日、小屋に行ってみると、掘った穴に40センチ程も水が溜りプールになっていた。雨はシートで防いでいたのだが、小屋の外の雨水が浸透圧で小屋の穴の中に染み出てきて、粘土層のため水が溜ってしまったのである。皆でバケツで水を掻き出し、対策を考える。結局、土木実験で使って捨てられているテストピースを穴の横壁と底に敷き詰めて、それをモルタルで塗り固め、厚さ20センチの丈夫なコンクリの穴とし、その上を粘土で覆うことにした。念のため、小屋の外に雨水を溜めるプールを2つ掘り、排水路を付けて雨水を誘導することにした。松炭20俵を注文する(今は、松炭を焼く人はほとんどいない。特別に注文した)。

10月 炉床を炭で埋めて断熱層を作るため、放課後皆で木材を燃やす。製材所からもらってきたトラック4台分の端材を燃やし、熾になった所で、長い棒に木のブロックの重しをつけたもので上から叩き潰し、小さな炭を作り、それをまた叩き締める。その上でまた木を燃やし叩き締めて、炭の層を地面まで積み上げる。この作業は、猛烈な炭塵が舞い上がり、マスクをしていても鼻の中は真っ黒になる。この作業を2週間ほど続けた。焚火の魅力を堪能した。その後、砂鉄洗いと、磁石での選別作業。100メッシュの篩にかけた上で磁選し、粒子の大きさで分別した。単純作業だが結構きつい。11月4日文化祭前日、合宿。炉作りに入る。左官用トロ舟に粘土と水を入れ、素足で踏む。強度をだすため切藁を入れ充分に踏む。その粘土で、横85センチ縦1メートル高さ1メートルの箱型炉を作るのだが、まず元釜(45センチの高さ)を作り、左右に送風用の穴を4つ開けた。その上に中釜(30センチの高さ)を積み上げ、その段階でいったん木を燃やし粘土を固める。そうしないと粘土の重みで炉が壊れてしまうからだ。充分燃やし乾燥させてから、最後の上釜(30センチの高さ)を積み、炉高1メートル以上にする。1メートル以下だと充分な還元反応が得られない。粘土炉の積上げはなかなか難しいものだ。11月5日午前1時20分炉作り完成。送風機と送風管を繋ぎ、午前2時20分実験準備完了。缶コーヒーで乾杯後、午前3時50分、炉に炭を満杯にし火を入れ、炉内の強制乾燥。送風機スタート5時55分、羽口(送風用の穴)より光高温計で炉内温度を計るも780度しか上がらず。送風の風が足りない。風が空気が足りないのだ。失敗である。大型送風機の元の所で繋いだ管が細くて、風が逆流して外に逃げていた。時間がなく送風の実験をやらずに始めたのだった。最後の詰めが甘かった。残念。しかし、一応、砂鉄と炭を投入し操業を続け、14時28分までに、砂鉄投入回数21回、計42キロ。炭投入同じく21回、計約90キロ。これ以上続けても無駄と考え、14時50分操業停止。普通は最後に炉を壊して中の鉄を取り出すのだが、今回は壊さずにそのままにした。第1回目は、無念の涙を呑んだのだった。

 

   第1回実験失敗の原因と、失敗克服のための調査の旅
   

 実験失敗の一番の原因は、送風の問題だった。送風が弱いため温度が上がらず、ノロ(砂鉄を精錬する際に生じる非金属性の滓のことで、これが出るか否かが成功の鍵である)が出なかった。送風機自体は、大型で風量は充分であったが、配管を4つに分けるのが意外に難しく、ロスが多いことが分かった。また、一連の作業を体験すれば、いろいろ分からないことが出てくる。資料を読んだだけでは分からないのだ。これは当然で、自分達で考えても分からないものは、経験者に聞くしかない。日本で一番の経験者は、出雲の「日刀保たたら」の村下(「たたら」製鉄のいわば技師長)である。行くしかない。ということで、春休みを利用して出雲への調査の旅に出た。「百聞は一見に如かず」である。本物を見ることの大事さを実感した。この旅での一番の収穫は、「日刀保たたら」の村下にお会いし、いろいろ教えて頂いたことだ。その話の中で、自分らが苦労してやったことが、むしろ逆効果であったと教えられた時、「ああ、来てよかった」と身にしみて思った。言われてみれば当たり前のことなのだが、それに気づくのに、どれだけ失敗を重ねることになるかを想像すれば、技術の伝授を徒やおろそかに思ってはならぬと痛感させられた。

 @砂鉄の磁選は、そんなに丁寧に純度をあげる必要はない。それではノロが出にくくなる。

 A砂鉄の乾燥は、さらさらでは駄目だ。5パーセントぐらいの水分が必要。さらさらだったら直ぐ炭の間から炉の底に落ちてしまう。

 B炭は松炭でなくてもよい。むしろ雑炭の方が反応がいい。

 これが、自分達が逆に考えていた点である。この旅で、素人の私が「たたら」を特研で取り上げてもやれるだろうとの自信と、やってやろうとのエネルギーを得たのであった。

 

   特研のスタートは手打ちうどんから
   

 17名の学生との特研は、合宿所での「手打ちうどん」大会からスタートした。共同作業には「一つ釜の飯を食う」体験が結構有効であると思っているからだ。1年の担任になった時にも、合宿しての「餅搗き」から始めている。食べ物を作って一緒に食べるという行動には、意外とその人の性格や人柄が出てくると思う。学生一人一人をよく知りたいという意図もあるが、お互いに打ち解けたいとの思いと、何でもやってみようの精神で、神秘なる「たたら」の世界へチャレンジするエネルギーを掻き立てたいとのねらいであった。

 夏休み前までは、基本資料を配り、「たたら」製鉄の原理を説明し、頭に入れてもらった。その上で、学生を五班に分け、「たたら」製鉄の重要な要素である砂鉄、粘土、炭、送風、鍛冶の5つの分野をそれぞれに割り振り、班ごとに調べた結果を発表してもらった。炭班の発表で、炭作りもそんなに難しくないとのことなので、自分たちで炭焼きもやってみることに決めた。伏せ焼きという一番手軽な方法で焼いてみたが、なかなかうまくは出来ない。3度挑戦して、少しずつ良くはなったが、全部で4俵ほどの不良炭が取れただけだった。これは、炉の乾燥の時に使用した。大変な作業は昨年に終わっているので、前期は余裕もあり、鍛治作業なども少しやった。

 

   特研「たたら」操業
   

 昨年の失敗体験と、出雲での貴重な見聞を得た上での特研「たたら」には、当然大きな期待をかけていた。去年の反省と本場「日刀保たたら」からの収穫、それに加えて今年の特研グループでの探究から、昨年の「たたら」に対し以下のような改良を加えた。

@大型送風機一台から4つに分ける送風方式を、2台の掃除機で直に羽日に送風する方式に変えた。送風実験も前もってやった。

A炉は箱型炉だが昨年より小さくした。

B砂鉄は昨年の純度の高いものでなく、磁選一回のものを使うことにした。また、さらさらに乾燥したものでなく、少し水分を与え、炉の中の炭の上から落ちにくいようにした。

C炉に炭を投入する際、上から叩き隙間を少なくし、砂鉄が炭の上にのるようにした。

D釜土粘土に混ぜる珪酸の多い花崗岩の風化砂を見つけることができた。グランドなどに使われる茨城産の岩瀬砂が本場で見た砂とほぼ同じであった。

  昨年同様、11月5日午前3時45分、期待をこめて火入れ、送風機のスイッチを押した。見事、青白い還元炎がぼうぼうと1メートル近くも立ち上った。すべて順調だ。いい調子だ。送風は1本でも充分だった。1時間後、羽口から炉内の温度を計る。光高温計には1248度が記された。よし、いける。1300度は直ぐだ。後になって思えば、ここに油断があった。炎の調子もいいので、砂鉄を入れ始めてしまったのだ。3回目の砂鉄投人後、温度を計ったら1073度に下がっていた。まずいと思って送風を2本にした。しかし、立ち直らなかった。経験不足のため、炉の状態を立て直す術がない。スラグ状のものが羽口を塞ぎ、風が人らなくなり温度が下がってしまったのだ。またもや失敗。操業はそのまま続けて15時30分に炉を解体したが、鉄は出来ていなかった。悔しかった。学生達も元気がない。疲れがどっと出た。

 

 

 諦めてたまるか、再挑戦

   

  実験後の最初の特研の時間に失敗の原因を話し合った。結論は、砂鉄挿入が早すぎたことと、羽口の点検掃除(羽口から細い鉄の棒で詰まったものを突いてやる)をこまめにやるべきだったということだ。最初は順調だったのだ。あの炎の調子でいけば成功したのにと思うと、砂鉄投入時機の判断ミスが悔やまれる。

  今回の失敗原因さえ乗り越えられたら、なんとか成功するのではと思われて、年度内にもう一度挑戦せずにはいられなくなった。それで学生達に、再実験をやりたいと思うが、今度は希望者だけ参加してくれればよいと呼びかけた。学生の本心は、もう勘弁してよ、という所なのだろうが、結局、全員参加すると言ってくれた。再挑戦の日は、平成8年1月27日と決まった。これまでの2回の失敗は、いずれも送風と炉内温度の低さに原因があった。この失敗原因をどう克服するかを皆で議論した。その結果、@炉は前より小さくし、円形竪型炉とする。円形炉の方が風の回りがいいだろうとの理由から。A送風の羽口の位置を前より上に取り、羽口角度を大きくし、炉底に風が当たるようにする。Bノロを出すための穴を2つから1つにする。これら3点を改良することにした。

 

 やった−!ついにノロが出た、成功だ!

   

 実験前日、素足での辛い粘土踏み。1分間踏むと冷たくて足がしびれ、脇に置いたバケツのお湯に足をつっこみながらの粘土作りを経て、ようやく炉を積み上げた。その翌日の午前8時、送風開始。1台の掃除機からの風は、黒い炭の間から青白い炎をぼうぼうと燃え立たせた。3度目の「たたら」炉は、期待通り1メートル以上の炎と水蒸気に包まれて燃えている。よし、いけるぞと心中に呟いた。

 実験開始後1時間、羽口から炉内温度を計る。1407度、ついに初めての1400度台。砂鉄投入を始める。炭を山盛り入れ、その炭が燃えて炉頂より下がったら、また、砂鉄と炭を入れていく。炎の高さを見ながら送風の調子を判断し、砂鉄と炭を交互に入れていくことの繰り返しだ。砂鉄挿入後4時間、午後1時15分、ついにノロ出しだ。不安と期待の心で、鉄棒で炉の下の湯口を突く。2度3度、ノロは出ず。また失敗か、と不安がよぎる。4度5度と突く。突然、オレンジ色に輝くドロドロのノロが流れ出てきた。「やった−!ついにノロが出た、成功だ!」と歓声を上げた。皆も初めてのノロに感激した。

 2度目のノロ出しも成功し、午後6時操業ストップ。炉を壊し、中から真っ赤な塊を取り出し小屋脇に作っていたため池に落とす。ジュワワーと激しい水音とともに水が沸騰する。「水が燃える」とは、映画「和鋼風土記」の中のナレーションの言葉だが、まさに水は燃えていた。きらきらと銀色に輝く鉄粒と、2.8キロの鉄の塊が現れた。ついに実験は成功したのだ。

 

 

 学生の感想

   

 最後に特研「たたら」に参加した学生の感想文を紹介する。

  3度目でした。先生も僕も3回目の挑戦でした。2年程前から、先生が日本刀にとりつかれるようになり、当時すでに木エクラブ同好会の部長をしていた僕は、まるで当然の如く、労働カとしてかりだされていました。1度目の挑戦が、今考えると、一番酷なものでした。まず何もない荒地。あるものは雑草とゴミ。荒れ放題。鉄を作るのに整地から行うのは、非常に先が長く感じたものです。穴を堀り、ため池も作り、草むしりもした。炉を築く以前に、その周辺の土の乾燥もしました。全くゼロからの出発だったので、その上での失敗は、とても悔しい失敗だったように思えます。捕らぬ狸の何とやら、とはよくいったもので、鉄を打つ練習も結局ムダに終り、悔しさをかきたてるモトにしかなりませんでした。

  2度目。3年生に進級し、特別研究の科目の中に「たたら製鉄」が在ったのを見た時、僕は先生の心の若さを感じました。でもその反面、「本気なのか、この人は」と思ってました。先生ゴメンなさい。2年生の頃から、「藤田、来年は特研でやるぞ、なっ」と声をかけられていた僕は、このたたら製鉄の作業のつらさを知りながらも、この「なっ」の一言のプレッシャーに、いともたやすく析れたのでした。でも、メンバーの多さをみると妙にホッとしました。この学校はもの好きが多いということを、改めて感じさせられました。授業は週1時間。何がでさるのかなと不安になっていた僕でしたが、夏が去っていった頃、徐々に授業時間外労働が増してゆくことに気づきました。特別研究という一単位のカリキュラムにしてはちと、問題があるような気もしていましたが、先生がそういう人だということは、十分わかってたので、何も考えずに働くことにしました。前回の失敗理由をカバーしようという今回の考え方は、かなり期待させるものでした。というよりは、先生のあの「根拠のない自信」に振り回されていたといった方が、あたってるような気がするのでした。ところが……結果的には完全な失敗。とことんカッコがつかない状況に追い詰められた先生の後ろ姿は、妙に悲しく、何ともいえない男の悲愴感が漂っていたものです。

  3度目。まさかの3度目。特研メンバーの誰もが思ったことでしょう。僕も思いました。「まだやるの」と。不屈の闘志って奴でしょうか。きっとあきらめきれないと、あきらめたのでしょう。この頃、僕は自分のやっていることが実はボランティアなのでは?という疑問にぶち当たりますが、かけがえのない一単位と、五十嵐譲介という一人の男に敬意を払い、最後までつき合うことにしました。でも確か僕は木エクラブ同好会部長のはずなのに、なんで鉄なんか作ろうとしているのか、さっぱり分かりませんでした。でも気にしません。そんなこと考えても仕方ないんです。木エクラブは、いわば労働力のかたまりなのですから。そんなこんなで当日の作業が始まり、いつもの如く砂鉄と炭を投入してゆきました。ところが3度目に初めてノロが出ました。2回出ました。炉を壊して、中から鉄らしきものも出ました。ひょっとするとひょっとして、これが世にいう「タマハガネ」?ということは成功?あのノロが出た時の先生のうるんだ眼球が印象的な一日でした。次の日、先生が休んだのはちょっと心配ではありましたが、「炉が呼んでいる」とか言い出した時の先生の目よりは心配ではありませんでした。(電子制御工学科3年 藤田豊)

  紙幅の関係で他の学生の感想文は載せられないが、参加した学生は皆、この特研「たたら」製鉄体験を、大変だったがおもしろかったと言ってくれた。今の私にとってはこれで十分である。


(1)『たたら製鉄の復元とそのヒについて』(昭和44年に日本鉄鋼協会により、出雲の菅谷で行われた「たたら」製鉄復元操業の貴重な報告書)、『菅谷鑪』(平成2年復刻版、島根県文化財愛護協会)、『たたら製鉄と日本刀の科学』(鈴本卓夫著 雄山閣)。 この3冊は、江戸時代のたたら製鉄操業を理解する上で不可欠の資料である。
(2)「木エクラブ同好会」とは、五十嵐が顧問のクラブである。


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