工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

 
   
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。二十一世紀の教育

 

 ●(271〜286P)

  二十一世紀の教育          浅黄谷剛寛  長野工業高等専門学校校長

     
     はじめに
 

  教育の目的は概ねその時代と社会の要請によるものであって、明治十九年の学校令にその基礎をおいたわが国の近代的な教育は、欧米列強の植民地化を逃れるために富国強兵を国是として国家に有為な人間を作り上げることに焦点づけられていた。よって欧米列強を範として欧米に追いつけ追い越せをスローガンとして、西洋文化の中心である科学技術を懸命に修得することが国家目的であった。かくして善し悪しは別にして、アジアでは数少ない独立国のひとつとして列強に伍して君臨してきた。
 第二次大戦後は個人が豊かになることが国の共通の目的であった。六・三・三・四制のもとで教育の機会均等がうたわれ、中学校終了までの九年間は義務教育によって平等主義が支配的な原理となり、高度経済成長とともに高等学校および大学進学率の上昇とがもたらされた。しかし知識偏重の教育が主流で知恵を育てる教育や心の教育は不十分であった。  二十世紀末に急速に進む高齢化社会に向けて生涯学習を見据えた教育が必要になってきた。幼稚園・小学校・中学校・高等学校・大学と人生のほぼ四分の一を学校で過ごし、そこで教育が行なわれるわけであるが、残りの四分の三の人生を進んで消化できる生涯学習の基礎体力を各人がつけておかなければならない。従来は児童・生徒・学生に至るまでその個人が所属するいわゆる学校に、教育以外のことまで責任を課してきた嫌いがある。今後は学校のあり方、家庭のあり方、地域社会のあり方などの役割分担を明確にし、かつ十分な連携をとる必要がある。また平等主義で画一的な教育を脱皮し、多様化へ向かわなければならない。
 以下のことは「理想」といわれ、大方の賛同が得られないであろうが、教育こそ理想を追えるものであることを自覚していただきたい。

 

   教師の指導力に期待する
 

 今日、日本の科学技術水準を保持できるのは、戦前からの欧米の科学技術の導入の結果で、それを可能にしたのは、数学と理科の教育水準の高さにある。最近「理科離れ」という言葉をよく耳にする。特に理科の教師が、このままでは日本は欧米諸国から科学者及び科学技術者の育成に遅れをとってしまうという危機感を抱いている。化学、物理、その応用としての工学などは技術立国としての日本を支える根幹をなすものである。そのために理科離れを子供のうちから止めなければならないのは当然である。しかし学習指導要領や教科書を変えれば済む問題ではない。大切なことは教師の指導であって、教師の指導力によって理科離れを防ぐことは可能である。
 日本の理科教育はよく研究されており、教育しやすく仕組まれている。どの子供も同じように考え、同じように自然に働きかける。平均的には諸外国と比べて高い水準を保持している。しかし自然観察や実験がなおざりにされているのが現状で、受験戦争に毒されているためもあって座学中心で知識偏重の教育がなされている。かりに実験観察が十分に行なわれても、型どおりのままで終わってしまえば、その教育効果は極めて小さいものになってしまう。観察などによって自然に驚きと興味を感じ、自ら湧き起こる疑問を解決するため、より詳細な観察や実験を行なうようになるのが本来の観察である。要は教える教師によって理科に興味を持つか持たないかの問題である。
 教科書にない内容でもトピックとして「阪神大震災」なども震災の事実を教えるだけではなく、それを色々な角度から追求していくきっかけを与え、かつ興味を持たせる授業が必要であろう。そうすれば将来の地震学者も生まれてくるかもしれない。こういった自然現象や刻々変る社会現象を積極的に授業に取り入れるような扱いが望まれる。これは理科のみならず社会・国語・英語・芸術・保健などの全ての教科に共通することである。教師は授業に際して、学習内容に少しでも余分なことを付け加えて、話に厚みをもうけ、児童・生徒に興味を持たせるような授業展開をすればいいのである。余分な話は覚えさせる必要はなく、忘れてしまってもよい。教師が生徒の心を揺さぶると、そこに頭の働きも出てくるし、考える習慣も生まれてくるし、新しい興味も見つける可能性がある。そういうことをしないで必要な知識ばかり教え込むだけでは、生徒は退屈し、頭が固くなって柔軟さを失うことになる。註(1) よってこれからの教育は教師一人一人の自覚に待たなければならない。

   偏差値は教師と教育を駄目にする
   コンピュータの発達によって、広範囲の地域にわたる大規模な業者テストが可能になり、特に高等学校の入学試験における偏差値による受験者の輪切りと進路指導が横行した。この業者テストの偏差値から見た「学力」による生徒の輪切りが学校間格差を助長させ、誤った進路指導を推し進めたため、ひいては高校における多数の不登校者及び中途退学者を生み出す原因にもなった。この弊害を排除するため文部省の指導で、平成五年度の高校入試から業者テストの利用が禁止された。業者テストは各教師の授業を的確に捉えて反映しているものではない。本来授業は教師それぞれが学習指導要領に基づいて行なうもので、同一学校内でも同じとは限らない。それを一律に業者テストで把握できるはずがない。本来いちばん子供をよく知っている教師が業者テストで子供の学力を判断しようとするのは教師の手抜きである。教師が自分で教えたことをどの程度生徒が理解しているかを判断するには、その教師の教授方法の中で把握できるはずである。まして他人が作成したテストで判断するのは教師の教育権の放棄につながる。偏差値を記した紙切れ一枚でその子供の将来が決められては残酷窮まりない。
 テストの横行は勢い暗記中心になり、ひいては「クイズの王様」を作ることになる。与えられた問題に機械的に答えを出すよりも、自分で問題を見つけ、自分で解決していける個人を育てることが必要である。受験戦争が小学生や幼稚園まで拡大し、子供にブレッシャーをかけ、大切な創造性の芽まで摘みとっているのが現状である。暗記で知識を詰め込んでも、その中から学者や芸術家が生まれるのは希で、また良い技術者も出てこない。その結果わが国は世界的な科学立国でありながら独創的な研究成果は諸外国に比べて極めて低い。今日の日本を支えている電子・電気産業、自動車産業、工作・精密機械産業あるいは石油化学工業などにおいても外国からの技術の導入とその応用で成功したものが大半である。
 受験勉強のような暗記中心の勉強は学問ではなく、知識を集積した個人を作り上げるだけで、そこには真の教育は存在しない。生徒一人一人の頭に感性と知性に刺激を与えてそれを伸ばし、知恵をもった子供を育てることが教育である。学校に期待するものは教師と生徒、生徒と生徒の触れ合いによって人間関係が形成される教育であり、ただ暗記して知識を詰め込むだけなら、学校に通う必要はなく、家庭で教科書を読み、ビデオを見れば可能である。

 

   ゆとりをもった自学自習をしよう
 

 知識偏重の教育から脱皮し、子供一人一人の才能を育てる教育環境を整える必要がある。学校においては基礎・基本が中心で、かつ楽しく学習できるように仕向け、授業時間内に消化できる学習内容を教師自身が工夫して考え出さなければならない。二十一世紀の教科書は現行のものに比べて内容がさらに厳選されたものになる。この時こそ子供に次のステップを考える力を与えられるようにしなければならない。宿題を廃止して、子供が自ら自由な発想で、自分の興味あることに自然に取りかかれる力を子供に与えられるようにすべきである。教師が宿題を与えるのではなく、自分で課題を見つけて自ら取り組むように仕向けることが大事で、それには教師一人一人の影響力は重大で、教師の人格を生徒一人一人へ投影させなければならない。
 テストを極力少なくして、テストがなくても生徒の学力を把握できるような学習を教師自ら作り出すことが必要で、テストで生徒を縛り付けたりしない教育が望まれる。宿題もなく、テストもなければ、子供はのびのびと生活ができ、家庭では、おのずからゆとりが生まれる。新しい教育課程では完全週休二日制が定着する。幼・小・中・高と全ての学校で自由な時間が大幅に作られる。そこで、学校から離れて家庭学習と遊びの時間を作り出すことができる。また地域社会のサークルでの勉強やスポーツ活動もでき、対外的なボランティア活動も可能になり、趣味の発見にもつながる。さらに自分の生き方や将来の進路もじっくり考える時間が生まれる。
 こういった事態に対応して親は子供に対して家庭での勉強を無理やりさせたり塾通いを強制したりしてはならない。親は子供に決して期待してはならない。子供に対する親の期待は、子供にとっては辛いことであり、プレッシャーとなり、子供のはつらつとした成長や自由な生き方を潰すことになりかねない。親が子供に期待することが子供に対する愛情と思っている節があるが、これは大きな間違いであり、親の欲目の反映に他ならない。放っておいても子供は時期が来れば自覚して、自分を発見し、確固たる道を歩むようになる。子供がそうなることを確信できないような親では困る。そのように仕向けるのが、家庭教育であり、学校での教育の一部でもある。自学自習を自覚できるように子供に十分な時間を与え、それまで親はじっと子供を信用して、暖かい目で見守ってやることが望ましい。さもなければ、親がかかりっきりで子供の教育に刺さり込むと、いわゆるマザコンの人間が作られ「指示待ち人間」や自分では何ひとつできない人間が作られてしまう。そのような個人では自分自身の社会生活もままならず、ましてや他人、地域社会、ひいては全世界へ貢献できるような人間は到底生まれてこない。受験戦争も元を正せば親が作り上げたもので、これを打破するには、親が従来の考え方とは全く逆の発想の転換をしなければならない。

 

   週休二日制と私立学校
 

 私立の中学校・高等学校の大半は週休二日制を取り入れていない。ここでは上級学校への進学者数の増加を図り、いわゆるゆとりのある教育はほとんどやっておらず、専ら受験シフトの詰め込み教育に終始している。その結果、ここ十数年で特に東京の私立の中・高等学校は大きく変わってきた。しかし、そういう教育を受けた者が将来、官僚や企業の上層部になったときに充分配慮の行きとどいた、かつ血の通った行政や管理ができるかどうかが心配である。私立学校にはそれぞれ特徴を活かす教育が必要であるが、高校や大学の合格者を伸ばすのが唯一の特色ではないはずである。「進学」を売物にした教育は、ただ私立学校の生き残りのための手段でしかなく、それでは予備校と何ら変わりはない。
 自由主義経済の中では学校といえども自然淘汰されて廃校が出るのが当然である。私立学校は営利目的の「企業」としてではなく、かつ進学以外の「特色ある教育」を売物にするのが本来の姿である。今後は完全週休二日制で、ゆとりのある、創造性豊かな、自由な発想のできる人間の育成に励むべきである。そのときあくまでも入ってくる生徒のための学校経営であって、教職員を養うための経営であっては決してならない。
 また私立の女子校は校則が厳しく、生徒の個性を伸ばす余裕のないのが大半である。髪の形・色、ピアスの穴、スカート丈、果てはソックスの形状まで厳しく規制している学校が多い。その反動は街のいたるところで散見される。これでは生徒は息が詰まるであろうし、個性豊かな人間を生む芽を摘みとっていることになる。校則の厳しさを特色にしても、それは没個性につながり、その結果はあまり期待できそうもない。

 入試を意識しない学習
 教科書が全て終わらなければ不十分だと思い不安を抱く教師や保護者が多い。教科書は学習指導要領を基にして作られている。学習指導要領は小・中・高の教育課程の基準をなすもので、各学年・各教科科目の学習する内容の大綱を示している。一般に教科書は学習指導要領の内容を膨らませて書かれているので、教科書記述の一部始終を学ぶ必要は全くなく、その一部は省略して扱ってもよいのでる。この点の理解が一般に不十分のようである。
 教科書を誰もが同じように学習する必要はないのであって、学習の基本とノウハウを学べば後は児童・生徒各人の好きな分野をやればよい。これでは受験のために不十分という意見が保護者から出るであろうが、教育の本質は受験ではない。授業時間も多ければいいというものではない。学習内容を重点的に押さえれば、おのずから実力が付くものである。普通に学べばだれでもできるような学習でなければいけない。何もかも詰め込もうとするところに勉強の面白さや興味を失い、学校離れや不登校の原因になってくる。中学・高校の勉強はどの学校も授業時間を最低時間に設定し、ゆっくりやれば生徒もついてこられるようになる。いたずらに授業時間を増やし詰め込む必要はない。そういう授業をすると親たちは子供達が受験に対応できないというであろう。しかし、どの学校も同じように授業時間を削減するのだから条件は皆同じである。「赤信号皆で渡れば恐くない」という言葉が一時流行ったが、「皆でやらなければなおさら恐くない」のである。あとは生徒の柔軟な頭と自学自習の意志に関わる問題である。
 都道府県の教育委員会は高校の入学試験問題をもっと易しく作るべきであり、受験者の平均得点が八十@九十点でも一向にかまわない。高得点者が多い場合は抽選で選抜すればいいのである。公立高校では定員割れとなった場合には二次・三次の募集をするから一度失敗しても心配はいらない。また中学を卒業してしばらく充電してから高校へ進学するのもひとつの生き方である。要するに受験の適齢期がきたからといって同じ年齢の者が同時に高校や大学へ進学する必要もない。これからは高齢化社会で生きていかなければならないのだから、高校や大学の年代で一@二年の遊びは、これからの長い人生八十年の中では丁度「中休み」となって反ってよいことである。子供にとって受験勉強は面白くなく苦痛そのものなのである。その反動で高校から大学へ進んだ途端に遊びにふけり、学問に専念する学生が少なくなっている。中学・高校では悠々と過ごして、勉強や学問の楽しさを理解し、進路を見極めてから大学へ進むべきである。現状では大学へ在学することによってモラトリアムの延長を図っている節がある。然るべき将来の目的をもって進学するのではなく、勉強のためでもなく、皆が行くから何となく大学へ行くという状態である。現状はまず大学があって、学ぶべき学問は二の次であるために、勉強がおろそかになるのである。

 何のために大学へ進むか
 大学で学問を修めてもそれがそのまま実社会に通用するものではない。就職した後、自分はこんな仕事を求めてきたのではないといって辞める者が後を絶たない。四年制の大学を卒業して四人に一人が三年以内に転職する。それは十分な見通しをたてずに就職への幻想を膨らましてきたつけである。要するに学問と就業とは直結しないものが多いのである。大学の学問と職業が直結するのは、おそらく医者と弁護士と教師ぐらいで極めて少ない。
 例えば大学で経済学を学んで銀行へ就職しても数年間は外交や営業で、集金と札勘定が主な仕事の場合がある。もし銀行内に大学で学んだことが十分活かせられる場所があるとすれば調査室くらいであろう。しかしそんなところはほんの一部でしかない。先ず大学を出てどんな職業に就きたいかを考えたときに、進学の前にその職業の内容をよく吟味させる必要がある。それが本来の進路指導で、入りやすい大学を選択指導するのが進路指導ではない。子供がこの日本であるいは世界でどのように生きていきたいかという最終的な職業選択を見据えた受験指導が本来の進路指導である。えてして教師は高校あるいは大学への合格率を百%にすることを目論んでいる。とにかく生徒を上級学校へ送り込みさえすれば自分の責任を果たしたつもりでいるが、これは根本的に間違っている。
 就職するには最終学歴が大学である必要はない。一般に就職にもっとも適合した学校は職業高校であり、専修学校である。そこでは大学における抽象的な学問ではなく、職業に直結した実利的な学習が可能であり、学んだことがそのまま業務に役立つ。また就職してから更に学ぼうと思う者には、就業者を対象にした大学や大学院が用意されている。他に通信教育、放送大学、社会教育などでも多くの講座が用意されており、学びたい人に対しては一生学習の機会が与えられている。従って我先にと焦って大学を目指す必要はさらさらないはずである。
 工業などの第二次産業でも身体を使う現業を嫌う傾向にある。子供の親は見栄や外聞だけで受験させるべきではない。生涯の生活設計を考えさせて進路を決めさせるようにしなければならない。大学を出ていわゆる「三K」を嫌い、第三次産業の中でも頭脳だけを使う仕事ばかり狙っては将来の日本は先細りである。大学を出た寿司職人やタクシードライバーがいる社会の方が反って豊かで望ましい。進学率が高まれば高まるほど第三次産業への就業は難しくなる。
 二十一世紀になれば大学もほぼ全員入学が可能になろう。その時こそ自分の進む道の選択肢も広がるであろう。その結果、第一次・第二次産業の中でも大学出の肉体労働者が支えるバランスのとれた社会が来てもおかしくない。高学歴者が肉体労働者であっていけないわけはない。高学歴者は先ず自分の頭脳と能力及び学識を謙虚に反省し、かつ自分を見極めて就業先を見出すべきである。今後どんなに高度な社会が訪れても、軽労働を含めて肉体労働力が必要なことには変わりはない。「三K」を嫌って外国人にそれらの仕事を押しつけて、それで日本が国際社会に貢献しているような錯覚に陥ってはいけない。

 心の教育
 人口増加が著しいインドは、そのうち中国に代わって世界一の人口を持つ国になるであろう。そのインドや中国はもとより東南アジアや世界の発展途上国の経済成長は顕著で、これらの国々の今後の動向は世界の安定を左右するであろう。よって近々エネルギー資源の不足とその高騰の時代が到来し、貧困と地球環境の問題が人類全体の課題となってくる。こういった国際社会の抱える問題を解決するにあたり、環境破壊を押さえ、「持続可能な開発」を可能にするために日本を含めた先進国のとるべき態度は重要である。日本は二十世紀にはアジアを踏台にして今日の繁栄に至った。今こそ日本は他国から信頼され、アジアのみならず世界への貢献ができる人間の育成に努めなければならない。
 科学技術立国として加工貿易をする一方で、知的資源の輸出も考えなければこれからの日本は成り立たない。労働賃金の高騰でコスト高になり、労働集約的な工業生産は今後外国に任せる方向になる。戦後日本の復興に貢献したのは造船業であった。アメリカやイギリスではそういった重厚長大な工業を日本に任せたためでもあったが、今や韓国が日本にとって代わろうとしている。日本の自動車産業は高い貿易障壁で輸入を拒み、外国に伍していけるようになって初めて市場を開放した。そういった産業部門でさえもアメリカ、ヨーロッパそして東南アジア地域をはじめとする世界各地へ拠点を移しており、日本の生きる道は今後極めて難しくなってきている。技術や頭脳の輸出が今後の主流になってくる。その時有能な日本人は海外での生活を余儀なくされる。そのためにも近隣諸国への充分な理解と国際感覚を身につけておかなければならない。
 最近の日本は頭でっかちの人間が出来上がり、倫理観の無い個人を生み出している。オウム真理教幹部の信者のように、知識は豊富であっても倫理観もそれに呼応した知恵もないために反社会的人間を生み出した。
 この原因のひとつがいわゆる「受験戦争」である。現代の子供は物量の世界に育っているため、何ひとつ苦労を知らないで生活している。苦労といえば「勉強」で、これは生徒・学生の本分であるが、自ら勉強するのではなく、親からの強制で勉強だけ仕向けられ、その他の一切の仕事から解放されている子供が大部分であろう。親は子供に勉強だけさせて、家事手伝いはもとより、身の回りの整理整頓までも一切親がかりというのが大方である。従って家庭での躾は全くできておらず、生活の根幹まで学校へ押しつけてきている。また、自分で責任をとることはせず、悪いことの一切を他人の責任にする傾向がある。そこには思いやりの精神などは全く生まれようがなく、一人自分だけが他人より前に進み、他人を欺いてまでも蹴落とすような風潮が生まれてきている。自分のことも十分にできず、中には卵さえも割れない人間が作られる。いわば知識だけを持った無機的な人間が形成されてきている。
 この結果、ここに人間的な教育の必要性が生まれてくる。特に、国際的には近隣諸国に十分な配慮ができるような「心の教育」が必要になってくる。いじめによる自殺者が後を絶たないが、同級生をいじめて死へ追いやるようでは、彼らが実社会に出たときに、国内は元より国際的に近隣諸国の人たちと友好的にやっていけるかどうかは極めて疑わしい。学校での道徳教育やいじめを排除する教育が必要であろうが、それ以前に家庭と社会での躾が重要である。家庭での躾が身につかないようでは社会に出てからは到底適応できないであろう。
 これからの教育の中心は情報教育・環境教育・福祉教育・国際理解の四つである。情報教育以外の三つは人間の理性と倫理に基礎をおいている。そのためにも世界へ貢献できる人間を育成することが大切になってくる。

 おわりに
 教育はどんなに制度を改革してもなかなか変わるものではない。おそらく永遠に変わることはないであろう。世の中の「人々の意識」が変わらなければ、受験戦争はおさまらず、教育問題はなくならない。「人々の意識」とはすなわち親の子供に対する意識、態度のことであり、これは学歴社会が厳然として残っている限りなかなか変わるものではない。しかし変える必要がある。子供の将来は子供自身で決めるべきである。親が子供に医者になれとか一流企業へ入社せよなどと自分の果たせなかった夢を子供に託し、その職業がその子供に最適かどうかも分からずに強制するのは親のエゴである。しかし子供が主体で自ら学び、そうなりたいのならば結構である。いまここで声を大にしていうのは、親がしゃしゃり出ないでほしいということである。いわゆる「受験戦争」なるものは大人が作り出したもので、日本を含め、東アジア特有のものであるようだ。欧米においては全く考えられない現象である。親はまず自分を磨くために生き、そして子離れをなるべく早くすることが肝心である。そうすれば子供に対するプレッシャーは和らぐであろう。
 現在の教育がいじめ問題をはじめ色々取り沙汰されている。国が悪い、政治が悪い、学校が悪い、教師が悪い等々、教育がうまく機能しない原因を自分以外のもののせいにすることは簡単である。しかし、そういっていては世の中は一歩も進まない。教育を改革していくためには、まず、自分の責任は何なのか、国民一人一人がまず、考えて見ることが大切である。教育は自分で切り開いていかなければならないことを自覚しなければいけない。

 注(1)参考文献 近角聡信 『日常の物理学』東京書籍、一九八三年

 
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