工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

 
   
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 ●埋もれた回廊の復元(248〜267P)

  山田寺の発掘調査から           工藤圭章  前沼津工業高等専門学校校長

     
   はじめに  
 

  芭蕉は『おくのほそ道』で「夏草や兵どもが夢の跡」の一句を詠んでいる。平泉を訪れて、彼の脳中には過ぎし昔の源義経の事蹟に哀れさを覚え、また、それにかかわっての鎌倉幕府による奥州藤原氏討伐、そして,栄華を極めた藤原三代のむなしさへの思いが重なったのだろう。だが、かって源頼義・義家父子が安倍一族と戦った前九年の役まで溯ってまで、その感慨を及ぼしたかどうかはさだかではない。
 それはともかく、芭蕉が見たのは確かに古戦場の跡そのものだったかどうかもはっきりしない。藤原泰衡が火を放ったため。当時の平泉の町は潰滅したはずであり、昔の平泉の面影など残っているはずがなく、まして古戦場としてのなにかの痕跡が残されていたわけでもない。この辺りでかって戦闘が行われたのであろうという故事を追憶して、「夏草や〜」の句を生み出したのであろう。あの谷間でああいうことがあった。この川辺でこういうことがあった。というような伝承があれば、何かしら歴史的事件をその場所に推定できよう。それも、どうにか地形地物が昔のままをいくばくかとどめていることによって、さらに同定まで進めることができる。さもないと、そこを訪れた人に感懐の湧こうはずもなく、その場所が遺跡だと知るはずもない。記録がなくても伝承があればこそ、訪れた人になにかしらの感懐が湧くはずである。
 平安時代の初めの九世紀のことである。出羽国の飽海郡(いまの山形県の日本海に面した北部の酒田市の辺りである。)で、大雨に洗われて多数の石鏃ガ海浜から発見された。このような石鏃の発見が二十年ほどの間に数度も京に報告され、そのつど政府は変事として陰陽寮に占わせ、兵乱の恐れがあるとの答申をうけて、驚愕して諸国の諸神に無事を祈らせるほどであった。伝承がないと遺跡遺物の発見も不可思議な天変地異としてみなされたのである。
 ところで、日本の遺跡はそこにあった建物が木造だったためか、概して崩れ落ちて残骸を晒しているような、いわゆるRUINS的な廃墟は少ない。石造や煉瓦造りと違って木造が主体の日本の建築では、建物が焼失もしくは腐朽し遺跡の多くは地上になんら痕跡を留めないSITESとならざるをえない宿命にある。土井晩翠作詩・瀧連太郎作曲の「荒城の月」は、二人が対象とした城は別だったがともに城の石垣が残りえたことによって、廃絶した建物があったころの昔の景観を偲んで、城への哀惜の念を起こしてあの名曲ができたのである。
 伝承と廃墟の遺構は一体となって人びとの心をくすぐる。ここで取り上げる山田寺は古代の遺跡でありながら伝承だけに留まらず、土中からかっての遺構も掘り出されており、きわめて珍しい遺跡であるといえよう。一般にある事象には多くの要素がある。山田寺の遺跡も歴史あり考古あり、そして、その保存に科学処理を必要とし、遺構の解明には古代建築の技法への学習が要求される。多くの要素要素の学習があってこそ事象への取組みができるのである。いうならば、学習への手掛かりにはいろいろの切り口がある。ここでは、山田寺の発掘調査を対象に取り上げ、その背景にあるものを探ってみたい。

 

   山田寺の遺跡と発掘調査
 

 山田寺の遺跡は奈良県桜井市から南に、安倍をすぎて明日香村に向かう道の南側にある。現在は昔の講堂跡に法相宗の大化山山田寺がある。本堂は元禄十二年(一七〇二)に再建された小堂で、十一面観音を本尊とする。この南側に塔や金堂の跡が土壇として残っている。もとはこの土壇の回りは一面に水田が広がっていたが、いまは国が一帯を買上げ史跡地として整備している。
 明治三十七年(一九〇四)、考古学者の高橋健自がこの地を訪れたとき、寺の境内の講堂跡には礎石が本来の約三分の一の十数個、水田に囲まれた金堂跡の土壇上にも礎石が十二個ほど残っていたという。しかし、大正六年(一九二一)にここを国指定の史蹟とするために調査が行われたときには、境内地にあった講堂の礎石は幸いに以前どおり残っていたが、金堂跡は水田地帯にあったので礎石を二個を残すだけで、多くの礎石が売却されて他所に運び出されてしまっていた。古代寺院の礎石は形状がよく稀少価値も高いので、好事家が買い求め庭石や蹲踞に利用することが多い。金堂跡の礎石の散逸もそのためであった。
 山田寺跡は大正十年に国の史蹟に指定され、さらに昭和二十七年に特別史跡に指定されている。飛鳥地方には永らくおだやかな田園風景が広がり、恵まれた景観を保持していた。しかし、昭和四十年代からこの地方でも近鉄駅周辺で宅地開発が進められるようになり、また、観光客の増加によって全国各地と同じように、観光開発による景観破壊が憂慮されるようになった。したがって、当時「飛鳥は日本人の心のふるさと」のテーマのもとで保存の声が高まり、高松塚の発見もあいまって飛鳥保存が政府の施策として取上げられるようになったのである。山田寺の史跡地もその一環として昭和五十年になって国が買上げ保存することになった。
 ところで、国が買い上げたとしても買上地をそのまま放置しておくのであれば、そこは伝承の地として「夏草や〜」だけの荒蕪地になりかねない。それではなんのための国有地なのか、買上げ目的が曖昧となる。史跡の破壊は国有地であるから防げるとしても、その活用がおざなりになってしまう。地元の人びとはそれを心配して、史跡地の顕彰として買上げた国有地の整備を強く要望したのであった。それをうけて奈良国立文化財研究所では、史跡地の保護対策と整備の資料を得ることと、遺跡究明のための学術調査を始めることとなり、翌昭和五十一年四月に第一次の山田寺発掘調査を実施することとした。
 第一次調査は買上地の南から塔を対象主体として始められた。この調査では塔の階段の突出や基壇周辺の犬走りの一部石敷きが発見され、基壇の大きさが確認されている。基壇上は周縁がかなり削られていたが、礎石一個が残ることや礎石の抜取り痕跡が検出されて、塔の平面規模が明らかにされた。しかし、地中に据えられた心礎周辺は明治末に盗掘されており、舎利孔には蓋もなく埋納品も発見できなかった。なお、この心礎は別の礎石を裏返しにして造られたものであった。
塔の調査とともに塔の南部や西部で回廊の存在を確かめたが、水田にされた時の土地の削平によって回廊の痕跡すら不明であった。ただ、中門跡推定地では建設時の足場穴と見られるものが検出されている。足場穴の存在は法隆寺大講堂の解体修理時の地下調査でも各礎石間の中央部で確かめられており、また、山田寺の発掘調査と併行して実施していた大官大寺中門の発掘調査でも、同様に足場穴が各礎石間の中央部で見つかっていた。このため、土地の削平で礎石の据えられた痕跡が無かったが、この足場穴の位置と数から、かっての中門は柱間が正面三間側面三間の平面規模を有したものと類推されたのである。また、この調査で発掘地東端では建築の軒先に付く茅負の断片が発見されたが、建設時もしくは修理時の廃棄材だろうとしか推定できなかった。当時この発掘調査を担当した私にとって、六年後になって東面回廊の建築部材が出土して、この茅負もその一部だったと知ることになろうとは夢にも思わなかったのである。この第一次調査が終了したのはその年の暮れであった。
第二次調査は昭和五十三年二月から始められ十月に終わっている。調査の対象主体は金堂であったが、一方、前回の調査で発見できなかった南面・西面回廊の代わりに北面回廊の存在を確認することをも目的とした。それは、金堂跡と講堂跡が離れすぎていたのでこの間に回廊がありうると考えたからである。ところで、この金堂の調査では古代の仏堂平面に未知の一形式を加えるとができた。そしてまた、その平面の及ぼす建築構造についての解釈は、建築史的に当時まで考えも及ばなかった大きな発見に連なった。
金堂の発掘調査では金堂の礎石が側と入側で数が等しくなること、すなわち、側・入側の柱間数が同数であることを礎石据え付けの痕跡から分かった。しかも、その中で入側の端の間が極めて狭いのことが注目された。前にふれたように金堂跡の土壇上には二個の礎石が残されていたが、両礎石の間の距離があまり狭かったので、それらの礎石は原位置から移動したものと考えられていた。しかし、発掘調査の結果、二個の礎石とも入側の端の間のもので原位置を保っていたことが確認できたのである。一般に古代の仏堂の平面では側の礎石は入側の礎石より八個多いはずである。したがって、礎石跡が側と入側で数が等しく検出されたので金堂の建築構造を後にふれるように新規に考え直すことになった。また、金堂の基壇廻りでは地覆石や犬走りの敷石が発見され、とくに階段の側面の石には獅子の脚部の浮彫りが施されていた。おそらく各面の階段の側面にはすべて浮彫りが施されていたと想像されたのである。基壇上では礎石やその据え付け痕とともに、地覆石の残欠が残されていることが確認され、その中の一個に間柱穴と見られるものもあって、後の金堂の復原への大きな手がかりとなった。この時の調査でも、発掘地区の東端部から斗の残欠が発見されていて、回廊の部材とは知らず、この遺跡では建築部材がよく出るなという感じを強めたことも否めない。
調査は金堂裏の北面回廊の検出に移り初期の目的どおりそれを発見できた。ところで、北面回廊の礎石はこの時代の礎石に見られるように、柱座が二重に造り出されていたが、下の座には反花の蓮弁が付けられていた。そのつもりで金堂の礎石を細見すると、確かにかすかながら二重の柱座と蓮弁の輪郭があるのが認められた。金堂の礎石は大阪の藤田邸(いまの藤田美術館)に運ばれたようだと地元の古老から聞き大阪に出向き調査したところ、案の定、美術館の庭園で蓮弁の造り出しのある礎石が多数発見できた。要するに、蓮弁がハッキリ残っていない礎石は売買の際に売値が安いので金堂跡に留めれたということだったのである。
 この調査で、山田寺の伽藍配置が、大阪の四天王寺式であるといわれていた定説が崩れ、回廊は塔と金堂を囲み、講堂は飛鳥寺のように回廊外に建てられたことが分かった。これも新しい建築史上の発見であった。現法隆寺も建立当初は回廊が塔と金堂だけを囲んでいたことが知られており、山田寺の伽藍配置は飛鳥時代の伽藍配置に一つの確定要素を加えたことになる。
 第三次調査は昭和五十四年五月から九月まで、前回の北面回廊の続きと講堂について調査している。この調査では講堂の東半部は水田耕作のためすでに削平されていて、なんら痕跡すら検出できなかった。現在の山田寺の境内地は講堂の西半部に相当する。ここには地表に露出したままの礎石や地覆石があり、地覆石には扉の軸摺穴が穿たれているものもあったので、講堂の建物のどこが出入りの扉口だったか分かる。これらの中でとくに注目されるのは側面の前端の間で、ここが片開戸だったことが地覆石の軸摺穴の存在から分かった。古代の仏堂に片開きの扉口があったとはそれまで想像もしていなかったので意外であった。塔・金堂が分かり、それらの中心を結ぶ伽藍中軸線が設定できたので、それを講堂に及ぼすと講堂の正面柱間数は八間となることが確定した。わたくしが山田寺の発掘調査に参加したのはこのときまでで、翌年一月、東京に転勤になった。
 山田寺の名が一躍識者から注目されるようになったのは、東面回廊が土石流で倒壊したような状態で発掘され、それが法隆寺西院伽藍の回廊より年代が古く、しかも、構造形式も異なることが知られたからであった。東面回廊の調査は四次に亘って行われている。すなわち、昭和五十七年八月から翌五十八年一月まで行われた山田寺の第四次調査、五十八年五月から十月まで行われた第五次調査、五十九年八月から十二月までの第六次調査、そして平成二年八月から十二月までの第八次調査である。とにかく、調査が多年度に亘ったのは、回廊の部材が水分を含んだスポンジのような状況で発掘されたので、それを保存するには部材の科学的処理が必要であり、回廊のような長い建物(発掘結果、東面回廊の総柱間が二十三間と分かる。)は一挙に掘り出すより、科学的処理が可能な程度に分けて発掘することが肝要であったからである。
 出土した状況は、回廊が横倒しに押し倒された形になり、屋根の瓦はその上に重なり、あたかも地上に葺き並べられたようであった。このことから想像すると、倒れた回廊はあっというまもなく土砂に覆われ、寺の人びとがのちにそれを片づけるには大変な労力を要するほど、土で封じ込められたのであろう。したがって、そのまま放置されたことが回廊が倒壊したままに地中で保存され、今回の発見に繋がったのである。東面回廊では南半部の部材の遺存がよかったのは、この範囲が地下水の浸潤が安定していたためと考えられる。当時見学に訪れたわたくしは以前の調査がフェード・インされて、出土している回廊の部材を見てただただ感激するばかりであった。
 回廊の礎石には金堂よりも分かりやすい形で単弁十二弁の蓮華座が刻まれていた。回廊外側の柱間には礎石間に地覆石が据えられており、外部と回廊内への通路となる出入口には、講堂と同じように軸摺穴が地覆石に穿たれていた。このような手法はこの時代の特徴であると認識できた出土した建築部材は柱・地覆・腰長押・連子窓・腰壁と連子窓下の束・頭貫・大斗・巻斗・肘木などであり、壁は表面に白土が塗られ、壁土の中には小舞が組まれて検出された。復原するとこの回廊は法隆寺の回廊より小柄で高さがやや低くなる。それにしても、法隆寺の回廊よりも建設年代が古い建物が発見されたというのは考古学と建築学上の快挙であった。
 発掘調査終了後、そのつどこれらの建築部材は保存のために科学処理されている。なぜならば、木材が土中に長い年月埋まっている場合、地下水に浸っていれば腐敗することなくその形が保たれる。しかし、木材本来の脂質分が水に相当溶けていて、繊維質分だけが残ってスポンジ状になっていることが多い。したがって、土中から取り出して乾燥すると、含まれていた水分が蒸発して繊維質だけになり変形してしまう。これを防止するためには、木材に含まれている水分をポリエチレングリコールと置換する科学処理が行われなければならないのである。山田寺の東面回廊の部材は、四次に亘っての長期間の調査を要したので、結局、部材の科学処理が終了するまでおよそ十五年ほど費やしている。なお、平成八年五月から南面回廊の東寄りの柱間五間分が第十次調査として新たに発掘されている。東面回廊の一部でも観測されたが、南面回廊のこの部分ではでは、柱間間で地覆石が発見されていない。回廊の立替えの可能性も考えられている。
 山田寺の発掘ではこのほか、平成元年十月から三年二月までの第七次調査で南門が発見されている。この門は出土した地覆石の軸摺穴から三間三戸形式の八脚門であることが知られた。そして、南門前には橋が架けられ寺への参道に通じていたことが知られている。三間三戸形式の門はこの時代では新発見に属する。また、第八次の調査では東面回廊の東側の北寄りで、宝蔵の存在も確認されている。なお、平成六年十一月の第九次の調査では東外郭が発掘されている。これらの多くの調査を要約すると、山田寺では八世紀中頃に回廊内が瓦敷きにされ、さらに十世紀にはその上に礫が敷かれ整備されていることが分かった。東面回廊が倒壊したのはその後の十世紀末から十一世紀前半にかけてのころであろう。そして、金堂と塔は十二世紀初めころまでは存続したようである。ともあれ、山田寺の発掘調査によって金堂・回廊だけでなく講堂・南門なども含めて、飛鳥時代の寺院建築に新知見をもたらしたことは紛れもない事実である。

   山田寺と蘇我倉山田石川麻呂
   山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の創立した寺である。石川麻呂の父は宗家の蘇我蝦夷の弟の倉麻呂であり、石川麻呂は馬子の孫にあたる。石川麻呂が脚光を浴びるようになったのは、大化改新の幕開けとなった飛鳥板蓋宮での中大兄皇子による蘇我入鹿誅滅に参加したことからである。宗家を継ぐ蝦夷の子、入鹿とは石川麻呂は従兄弟同士である。彼はこの入鹿誅滅事件を契機として出世し、孝徳天皇のもと百官の制が整った難波の長柄豊崎宮で、左大臣阿倍倉梯麻呂と並んで右大臣の要職に就いたのであった。石川麻呂の娘の乳媛は孝徳天皇の妃となり、また、もう一人の娘の造媛は中大兄皇子の妃となっている。ところで、山田寺の造営の次第は京都知恩院の所蔵になる聖徳太子の伝記の、『上宮聖徳法王帝説』の裏面に書かれた平安時代の追書によって、幸いに知られている。それによれば、山田寺の建立が誓願されたのは舒明天皇十三年(六四一)三月であったという。まず、この年から寺地の造成が始められている。いまの寺跡周辺の地形を見ると、東から下がる尾根の裾を削りとり、その土で低地をならして整地したことが推定できる。建設機械のない当時としてはこの造成は大工事てあったろう。ともかく、古代の寺院で記録の上から造営次第がしられていることが珍しい。山田寺では敷地造成に二年を要している。
 金堂の建設が始まるのは皇極天皇二年(六四三)の時であり、この年に飛鳥板蓋宮がつくられ、天皇が新宮に遷られている。また、舒明天皇創立の百済大寺の再建もこの年から進められており、いわば、飛鳥では建築ラッシュの時期にあった。ところで、山田寺に僧が住むようになったのは大化四年(六四八)であり、このころには金堂が完成していたと思われる。造営が始まってから五年も経過し、ほかに僧房などなにがしかの建物も建設済だったと想像される。石川麻呂が右大臣の要職にあったので、山田で寺の造営を直接担当したのは長子の興志で、一家あげての造営であった。金堂ができて寺の運営も軌道にのって、石川麻呂には順風満帆の日が続いたように見えたが、やがて大きな陥穽がまちかまえたのを知るよしもなかった。
 大化五年(六四九)に石川麻呂の異母弟の日向が、兄が中大兄皇子を謀殺しようとしていると天皇に密告したのである。これより前、左大臣の倉梯麻呂が亡くなったこともあって、石川麻呂一人だけが大臣の位にあって権力を集中することも可能だったために、妬みを受けやすい立場にもあった。日向のそれはまったくの讒言であったが、当時の風潮として一度天皇もしくは皇太子から疑われた者は、直接弁明できないかぎり処刑されるのが通例であった。それも申し開きが聞き入れずに被疑者には死罪が与えられていることが多い。このようなことを知っているので、石川麻呂も天皇の詰問の使者に対して、直接天皇の御前に参ってお話し申上げると答えるだけであった。天皇は結局、軍勢を集めて石川麻呂の自宅を包囲しようとしたが、それを事前に察知した彼は、子供とともに難波の都から逃れ山田寺に籠もったのであった。彼にとってまさに山田寺は彼の終焉の場所に他ならないと決意したからであろう。
山田に向かう途中、石川麻呂は迎えに出た興志から追討の軍勢と一戦を交えることを勧められたが、それを許さず寺についてから子供たちや衆僧を集めて、「仏に導かれて安らかに終わりのときをこの寺で迎えよう」と諭し、金堂の扉を開き堂内で経死したのである。彼にしたがって死路をともにしたのは妻や三男一女と従者で、あわせ八人が自害している。翌日も石川麻呂に殉じた者が多かったという。密告者の日向を追討の将軍とする天皇の軍勢は山田寺での石川麻呂の自害を聞き、一度都に引き上げたのであったが、再び山田寺に向かって軍勢を進め、部将の一人の物部二田造塩は、石川麻呂の遺骸を刺したり頭を斬りつけたり悪行を欲しいままにしている。追討軍は石川麻呂の輩下の者を捕縛し、のちに彼らを斬殺・絞殺の死刑に処し、あるいは流罪としている。この事件の事後処理はまったく残忍なものであった。しかし、没収した石川麻呂の資財には皇太子所有を示す題簽が付けられていたことが明らかになり、彼の謀叛の意思の無かったことが証明されている。朝廷はこの事件の張本人である日向を筑紫太宰帥に左遷している。時の人はこれを隠流(しのびながし)と称したという。皇太子妃の造媛は父に無礼な振舞をした塩を憎み、調味料の塩の名さえ忌み、やがて心痛のあまり病臥し父の後を追っている。この悲惨な事件で山田寺の造営は中断した。
 こののち、朝廷は朝鮮出兵に失敗し新羅と唐の来攻を恐れて西日本の防備を固めたりしたので、山田寺の造営が再開されるのは十四年後の天智天皇二年(六六三)になってからである。まず塔の造営に着手するが、天智天皇は母の斉明天皇の菩提を弔うために川原寺の建設に取りかかったこともあったためであろうか、山田寺の工事が順調に進んでいない。その後も皇位継承の壬申の乱もあって、塔の心柱が立てられることになるのが天武天皇二年(六七三)、塔頂に露盤が据えられるのは天武天皇五年である。塔の次には講堂の建設が始まり、天武天皇七年に丈六仏の鋳造が行われ、同十四年には天皇を山田寺に迎えて開眼供養がなされている。奇しくもその日は石川麻呂の命日であった。あるいは、命日をわざわさ選んだのであろうか。この年の八月には天武天皇が山田寺を訪れて落成を賞している。天武の皇后のう野皇女(のちの持統天皇)は造媛の子、すなわち石川麻呂の孫娘にあたる。また、皇太子草壁皇子の妃の阿陪皇女(のちの元明天皇)は皇后の叔母の姪媛の子であって、ともに石川麻呂の孫娘であった。彼女らにとって山田寺の造営は祖父の顕彰でもあったろう。まさに山田寺は官寺なみに扱われたのであって、文武天皇も封三百戸をこの寺に施入している。 
 時代が下がって治安三年(一〇二三)十月に、高野山に詣でる途中に藤原道長がこの寺で一泊していることが『扶桑略記』に記されている。それによれば、翌日になって伽藍を拝観した道長は金堂に入りその荘厳さに絶句し、彼の心眼をもってしても理解するにはほど遠かったという。このことは山田寺金堂の素晴らしさを示すものといえよう。ところで、『諸寺縁起集』(護国寺本)にこの金堂については、一間四面二階の堂で本尊として半丈六の仏像を祀られ、堂内東南には本願の石川麻呂の御影が安置されていたと記している。一方、講堂についてはこの『諸寺縁起集』に五間四面の堂と記されていて不審である。当時の建物の記述のしかたでは、正面柱間三間の金堂を一間四面の堂とするのは妥当であるが、講堂は正面柱間が八間なので六間四面と記すべきであった。諸寺の講堂が正面柱間が七間が通例なので誤認したのであろうか。飛鳥時代の講堂では四天王寺や法隆寺などに正面柱間八間の建物があり、山田寺のそれはとくに間違えるほど珍しくなかったはずである。
 『諸寺縁起集』にはまた、講堂内の仏像として丈六十一面観音と鋳造の丈六薬師三尊がともに祀られていると記している。ともに本尊とするには柱間が八間のような偶数間の仏堂が適切である。ところで、このうち薬師三尊は文治三年(一一八七)に興福寺の僧兵に強奪され、治承四年(一一八〇)の平家による南都征伐で焼失した興福寺東金堂の本尊の代わりとして奈良に持ち去られてしまっている。この本尊は応永十八年(一四一一)の東金堂の火災で頭部のみ焼け残り、いま奈良の興福寺国宝館に白鳳の仏頭として展示されている。まったく数奇な運命を辿ったといえよう。
一方、『諸寺縁起集』にはまた、山田寺の五重塔内に高さ五〜六寸幅四寸の銅板の小仏が飾られていることや、礎石は不思議なものであると記されている。発掘ではそのような銅板の小仏が出土していない。銅板ならぬせん仏なら出土しておりそのことを指すのだろうか。また、礎石に蓮弁が付いているので不思議と記しているのだとしたら、塔も金堂や回廊と同じような礎石が使われていたのだろうか。現在、塔の基壇上に遺存する礎石には柱座が二重にならず連弁も付いていない。ただし、礎石の記載は五重塔に限定したことでなく、伽藍一般についてふれたものと考えられなくもない。

 

   山田寺金堂の構造
 

 山田寺の回廊と法隆寺西院の回廊とを比較して外観から分かる違いは、前にふれたように、柱高が低いために全体に低く小柄に見えることである。細部については、長押が連子窓の上に付かないこと、斗きょうの大斗には皿板が付かず肘木下面には舌があること、また、頭貫の上端は柱頂よりやや高くおさまるので、大斗は少し頭貫の上端を削り下げて据えられることなど、若干の差異が認められている。したがって、七世紀の寺院建築は様式・手法とも異なる諸要素が入り一元的でなかったことが知られるのである。山田寺では、金堂自体の建築部材が発見されていないが、回廊とともに金堂も注目される。むしろ主要堂の金堂の構造形式の方が回廊より重要視されるのである。
 さて、法隆寺の金堂は奈良時代の諸建築と違って、外観では組物が雲斗きょうで、しかも隅は肘木が四十五度方向に斜め一方向にだけ突き出ることが知られている。したがって、軒下は隅が簡潔に見える。これに対して、奈良時代の建築では組物が三手先斗きょうで隅では肘木が三方向に出るので、軒下がこみいって見える。山田寺の金堂も側と入側の礎石の配置を考慮すると、軒下の隅は法隆寺同様に肘木が一方向にだけ出る形になる。しかも垂木は法隆寺が角垂木の一軒であるのに比べて、山田寺では円形の垂木先瓦しか出土していないので、明らかにこの建物の軒は丸垂木の一軒と推定でき、軒下はより単純にすっきりして見えることになる。なお、軒下の組物は側と入側とを力肘木的役割を果たすものとして、法隆寺のような雲斗きょうが有効であろうと考えられた。
ところで、山田寺の金堂ではすでに指摘したように、入側の端の間の礎石の配置からこの柱間が極めて狭いことが知られている、これは入側に対応して側と連繋する力肘木、すなわち、この建物では雲斗きょうであるが、外側の隅の軒先を支える際に突き出る隅柱上と隣の柱上にある二本の雲斗きょうの先端が、あまり広い間隔にならないように配慮したためであろうが、実際にはそれでも軒荷重を支えるになお不十分である。そこで、恐らく軒を支えるために法隆寺玉虫厨子の雲斗きょうの配置のように軒先を等間隔に受けるために、隅の間の中央にも放射状に力肘木的ものが補強として入るものと考えられた。図に示せば分かりやすいと思うが、玉虫厨子の放射状の雲斗きょうを想像すれば理解できると思う。
飛鳥時代には、実際の建築にも玉虫厨子のような工芸品のような構造形式のものが確かに存在したであろう。工芸品も架空の構造をとりえない思う。とくに、玉虫厨子では大斗に通肘木をのせ雲斗きょうと斜めに組合わせており、実際の建築にも適用可能な構造を示している。このことは大きな発見であった。金堂跡で発見された地覆石には方形の間柱が立っていたと思われる仕口があり、それが隅の柱間中央の補強材を受ける間柱のものと考えられた。柱間中央にこのように間柱の立つ類例は法隆寺東院夢殿にもある。なお、奈良国立化財研究所飛鳥資料館には山田寺金堂の構造模型が展示されているが、この模型では軒下補強として雲斗きょうを用いずに遊離尾垂木を挿入している。
山田寺の発掘調査以降に、他にこのような建物が存在したことが知られるようになって、必ずしも山田寺金堂が特異な建築であるとの考えを払拭させた。それらは三重県名張市の夏身廃寺や滋賀県大津市の穴太廃寺で、山田寺金堂の礎石配置とよく似た礎石配置が確認されたので、それらの金堂も同じような構造かと考えられている。とくに前者は天武天皇のために皇女の大来皇女が建てた昌福寺に比定されている。昌福寺は神亀二年(七二五)建立と伝えられるので、八世紀の初め頃まではいろいろな様式の建物があったことが知られるのである。このことはまた、奈良時代の建築が八世紀中ごろから極めて一元的になるのは、律令国家として全国の統一を図った中央政府による規格建築が、全国的に分布したからであろうと考えられる。いま、法隆寺西院伽藍の金堂・五重塔・中門を見ると、奈良時代の建築に比べかなり異質に感じる。山田寺の金堂は法隆寺西院伽藍とかなり異質に見えたことだろう。山田寺の金堂のような藤原道長が感銘を受けた建物がかってほかにも存在したと想像すると、楽しさが増してくる。

 

   おわりに
 

 山田寺回廊の発掘のような古代建築の部材が発見されることは、その後もありえるだろうかと期待したが、一度あることは−の譬えではないが、平成二年五月に行われた飛鳥・坂田寺の第六次発掘調査で似たような経験を得ている。この調査で坂田寺の仏堂と回廊の建築部材が出土している。仏堂では柱・地覆・壁であるが、回廊では柱・頭貫・大斗・巻斗・蟇股・連子窓などであり、山田寺に次ぐ成果を挙げている。坂田寺は七世紀の初めに止利仏師が建てた寺であるが、この時発掘された仏堂・回廊はは八世紀後半のものであった。ともあれ、古代の建物が押し寄せた土砂に埋まって発見され、古代の建築にさらなる知見が加えられることを今後も期待したい。
 山田寺の回廊の部材は科学処理が施されて硬化し、実際の木材の二倍ほどの重量になっている。飛鳥資料館ではこの部材を館内で組み立てて展示する計画を樹てている。そのためにはまた新たなに工法が検討されることであろう。古代を顕彰するやり方には学習と同じようにいろいろな取りかかりがある。                                                 文中に建築術語が多く理解しがたい面があったと思う。記してお許しを乞う次第である。

 
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