高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

   


  
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1 学びたい学生たち

 

 ●世界が見える授業(155〜168P)

  突然のハンガリー人講師に目を白黒       田代文雄  沼津工業高等専門学校教授

   なぜ外国人講師か
 
     国名や民族名にも自称と他称があるというごく単純なことさえ学生たちはほとんど気づかない。ギリシアはその国でもギリシアと言っていると信じて疑わない。国や民族に自称と他称があるという認識は、アイデンティティの問題であると同時に、他称という他者の文化を通して差異化してみていることを認識しているかどうか、すなわち相対的なもののみかたの問題でもある。いうまでもなくインディオやジプシーはヨーロッパ人が勝手に付した他称である。それらの名称自体それなりの歴史をもった文化であるが、近年はそれぞれアメリカ系アメリカ人(Native Americans)、ロマ(Roma)といった差別のない名称や自称を用いるようになってきている。 
 一方、世界には多数の民族、多数の言語があることは誰もが知っており、最近はさまざまな民族の人たちが来日し、居住しているにもかかわらず、西洋人をみると一様にアメリカ人と思い込んだり−−そのアメリカ人にもさまざまな民族がいることをけろっと忘れている−−、アジアの人だとどこの国の人かにさえ関心をもたない。本校にも東南アジアからの留学生がいるが、彼らとほとんど話すことはなく、その生活にも無関心である。
 これでは、いくら世界の歴史を講義しても、民族紛争を解説しても、ただの面倒な勉強にすぎず、国際的な視野は広がらない。単に遠い出来事だからというだけではなく、もっと根本のところが欠けているからではないか。そこで、「国際教養」の講義に、一時間(100分)だけだが、日頃あまりお目にかからない(と決め込んでいる)民族に属する在日外国人を特別講師として招き、共同講義を行う試みをしている。平成七年度はハンガリー国籍の女性心理学者で、日本人と結婚している深谷ベルタさんを招いた。以下は、彼女の講義を、学生の反応を引用しながら報告したものである。講義中の私自身のフォローも含む。

   音楽テープからイメージを探る
   

 彼女の依頼によって、当日はまず私だけが講義室に入り、紙片を配ってハンガリーに関してのイメージを何でもよいから五分で簡単に列挙するよう指示した。もちろん、これはテストではないので、間違っていてもかまわないと付け加えた。学生たちは名前しか知らないよ、と頭を抱えている。実際、ヨーロッパのどこかとか、ジプシーとか、白人の国というぐらいで、ときたま東欧で暗い感じ、首都がブダペスト、西欧にくらべ遅れているというのが見受けられるくらいである。書き終わった頃にやおら彼女が登場すると、予期しなかった学生たちは驚き、かつどぎまぎした。英語で訊かれたら、という不安の表情も交じっていた。ところが、彼女がおもむろにサングラスをとって、にこやかに流暢な日本語で「私はハンガリー人です。名前は深谷ベルタです」と自己紹介をすると、学生たちは目を丸くして二度びっくりし、同時に安堵の表情に変わった。
 次いで彼女は一切の説明なしに、いくつかの音楽と朗読からなる自分で編集したテープをかけ、学生一人一人のもとに行って、名前を訊きながらテープから受けたイメージをたずねてまわる。必ず相手の目を覗き込むようにして問いかけるので、学生は気恥ずかしそうにもぐもぐしている。事実、「初めに渡された紙にハンガリーについて知っていることはなしと書いてしまったことが今でもなんか後悔してます。ハンガリーの人が自分の目をずっと見て話をしてくれたけど、私は目をそらしてしまいました」(O君)というように。しかし、やがて「広い平原」とか「どこか懐かしい感じ」「結構モダン」「ハンガリーの言葉は英語ではない、なんとなくドイツ語っぽい」などと答えだした。答えを聞いた後、最初から順にブラームス「ハンガリー舞曲」、ドップラー「ハンガリー田園幻想曲」、ハンガリー民謡、ビートルズの曲をハンガリー語で歌ったもの、民話劇などと種明かしをした。これは、かなり学生の構えた姿勢をほぐしたようである。「音楽というのは世界共通で、ハンガリー人だろうが、それから感じるものは同じだと思います。ぼくはあの音楽から風景が浮かんできました。前半の方はのどかで、自然が感じられました。なぜ目で見ていないのに、耳で聞いただけで頭の中に浮かんでくるのか不思議です」とA君は記している。

 

   ハンガリーではハンガリーとはいわない
   

 そして、彼女はハンガリーでは自分たちの国のことをハンガリーとはいわないと切り出した。えっ?という怪訝な表情が学生の顔に浮かぶ。マジャルオルサーグMagyarorsz@magyarエ* ハスorsz@g国)というの。ハンガリーというのは英語による他称からきた日本語名です。それでも学生はぴんとこないようである。そこで私がつい口を挟んで、最近の新興国は別として、こういう例は不思議でもなんでもない。ギリシアは自称ヘラスだし、フィンランドは自称スオミ。ドイツだって英語だとジャーマニーだろう、ドイツ語だとドイッチュラントではないか。第一、日本とジャパンの関係で分かるだろう。そういわれて初めて納得する。別にマジャルオルサーグという言葉を覚えなくてもいいが、国名にも自称と他称があることだけは気づいてほしいな。
 ここで彼女はハンガリー版の地図を見せ、これを見てどんなことが分かるかを学生に尋ねる。ハンガリー語で書いてあるから分からないよ、というのが最初の反応である。そのうち、「海がない」とだれかが答えてからは、「大きな川が貫流している」「山がほとんどなく、平野が広がる」といったことを発見した。先ほどの「広い平原」のイメージが、当たらずとも遠からずということが分かってくる。また、この川がドナウ河だと分かると、親しみも湧いてきたようである。

 

   国境が動く、国籍が変わる
   

  しかし、この国が日本の面積の約四分の一、人口で一千万余と聞いて学生は「なーんだ」というがっかりした表情をみせた。どうも大国ばかり意識しすぎるようだ。そしてヨーロッパ(とイメージする)諸国は、地理的にも大国だというイメージが固定化しているようである。ほかのヨーロッパ諸国を見てごらん、日本より面積で大きい国はどこだ? フランスやスペインぐらいで、ドイツでも日本なみ、あとはみんな小さい。人口はもちろん少ない。北欧のフィンランドだってハンガリーより少ない五百万。ヨーロッパで日本は小国だというと、笑われるよ、とは私自身の経験である。彼女はさらに十五世紀と十九世紀末の歴史地図を広げる。同じハンガリーを見て、現在の数倍もあったことに気づき、国の大きさがこんなにも変わるなんて信じがたい、という声があがる。「授業を受けての一番の驚きは、《国の形が変わる》ということでした。日本は島国であるために何百年も同じ形をしています。私は頭がぼんやりしていたのでしょうか、国土が変わることが起こりうるのを忘れていました。目が覚める思いで、国の形が変わる過程を思いました」(Iさん)というのが実感であろう。
 
ベルタ先生は続ける、自分の家族は四つの国にいたという人がいる、ずいぶん移住した家族だと思うでしょう、ところが、ずっと同じ村に住んでいたのです。なぜだろうか、と。学生はキョトンとしている。じつは国境の方が変わったのです。その村は、あるときはオーストリアに、あるときはハンガリーに、さらにまはたユーゴスラヴィアになった。だから、国籍としてはオーストリア人であったし、ハンガリー人であったし、ということになります。世界中、民族が混住している国境地域では、こんなことはそう珍しいことではありません。それでも、日本は全く関係ないから分からないという顔付きである。そこで私が学生に訊いた。混住地域とは違うケースだが、韓国の人や台湾の人が、ずっと同じところに住んでいても、日本併合時代にはナニ人にされていたんだ? 
 彼女の話は次のように展開する。あの一家は国籍は変わったけれども、民族のアイデンティティが変わったわけではないのです。私は今もハンガリー国籍だが、もし日本に帰化したとしても民族はハンガリー人ですよね。そのへんが、日本語ではとても紛らわしい。国籍と民族籍の区別ははっきりしないのです。ナショナリティは日本では国籍と訳されことが多いが、むしろ民族籍とでもいうべきもので、シティズンシップのほうが国籍。じつは、ハンガリーにも国籍上はハンガリー人でも、ドイツ人やスロヴァキア人、ルーマニア人、クロアチア人なども少数民族として住んでいます。だから、日本語としては変な言い方ですが、正確にいうと私はハンガリーのハンガリー人です。今は日本人と結婚し、日本に住むハンガリーのハンガリー人というわけです。

 

   日本人は顔付きで分かる?
   

 ベルタ先生は、今度はハンガリー語版の千ページもある分厚いヨーロッパ民族学大図典を持ち出した。さあ、今までに知ったことを基に、このなかからハンガリー人を捜し出してみなさいという。本の周りに集まってこれかな、あれかなとあちこちページを繰るが、なにしろこんなにヨーロッパに多くの民族ないしエスニック・グループがあるとは彼らの想像もできないことで、またもや知らない言葉で説明してあるから分かりっこないよと言いだす。だが彼女は辛抱強く待つ。そのうち一人の学生がインデックスに気づいた。「そう、そう」という彼女の言葉に励まされて、Magyarを引けばいいんだ! 該当のページを繰って写真を見つけると、拍手がおこった。
 そこにはさまざまな地方の民族衣装をまとった、さまざまな顔が並んでいる。赤い花模様の刺繍に奇麗だとか、やっぱりヨーロッパ人の顔だけど、こっちの農民はシベリアの民族にちょっと似てるとか、男の人はたいてい鼻髭をたくわえているとかいって、彼女のブラウンの髪、白い肌、青みがかった灰色の瞳と見くらべて怪訝そうな学生もいる。
 さっそく彼女は尋ねた。民族とは何によって分けられるのかな。あなたは隣にいるAさんをどこで日本人だと見分けますか。こんな質問は生まれてこのかた聞いたことがないらしい。考えたすえ、肌の色とか目や髪の色など「顔付きで分かる」というのが一番普通の答えであった。親が日本人だから、というのも多かった。本当に顔付きだけで分かる? 例えば、この図を見て、私がハンガリー人だと分かりますか。学生は困惑したのち、ヨーロッパの人は分からないけど、日本人なら分かる、という口ぶりであった。  そこで私は、自分の経験を話してみた。ブダペストで通っていた研究所の帰り、いつも市電のなかで遠くからぼくと目があうと微笑する、眼鏡をかけた品のいい同年配の東洋人がいて、日本人だと思ったものである。日本人同士でベタベタするのが嫌いであった私は、なるべく避けていたのだが、あるとき市電から降りて帰宅の途次、彼が後を追って来て「こんにちは」と挨拶したのである。やっぱり日本人だった、と思ったら、そのあとハンガリー語で話しかけ、ヴェトナムの科学者であることが分かったのである。彼とはその後親交を重ねたが、その日本語が日本の占領時代、五、六歳のときに日本軍から聞き学び、両親は日本軍に殺されたと淡々と語ったとき、愕然としたものである。余談はさておき、このように外国の街角ですれ違っただけの一人の東洋人を、顔付きだけで日本人かどうかは断定できない。けれども団体でいると、遠くから見ても、背の高さ、しぐさ、着ているもの、行動タイプなどではっきり識別できる。 
 こんな私の話を聞いていて、そういえばこの本の写真を見ていると、一つ一つの顔や衣装はずいぶん違うけど、こうやってまとまって見ると、ドイツ人ともフランス人ともどこか違う感じがする、それが民族かもしれない、という学生もでてきた。

 ハンガリーの言語は日本語に似てる?
 そのうちM5のK君が、書いてある文字からローマ字だけど@とか@,@,@,@などふつう見かけない文字に気づいた。そこで彼女はローマ字、つまりラテン文字だということからはハンガリーが古くからローマ・カトリック(西方教会)の文化圏に属することが分かり、見かけない文字は一部はフランス語やドイツ語にもあるが、これら全部があればハンガリー語だということが分かる、と説明を加えた。ちなみに、先ほどドイツ語っぽいという意見が多かったが、実をいうとハンガリー語はインド・ヨーロッパ語には属さず、東洋系のウラル語に属する。要するにもともとはウラルのほうから民族移動して来たからです。だから名前も日本と同じく姓名の順で、ベルタ・フカヤではなく、フカヤ・ベルタです。住所を書くにも、番地からストリート名、都市名、州名というのと逆で、大分類から小分類へ記す。また前置詞がなく、助詞に相当する後置詞のようなものがあり、例えばI go to Tokyo.はToki@ba megyek.という。だから、私も英語より日本語のほうが楽です。これには学生たちも驚き、かつ、ほっとしたようである。
 学生たちは「深谷先生の話を聞いていると、どこかで聞いたことのある口調である。ふと、数学者であり、大道芸人であるピーター・フランクルと同じ口調であることに気づいた。しばらくすると先生が『ハンガリーの言葉は最初(語頭)にアクセントをつける』といわれ、気になっていたことが解決した。そして日本語といくつかの共通点があることも知った。名前・住所の語順、助詞があることなど、通常の講義では聞けないことを知ることができ、ためになった」(C5、K君)、「名前ぐらいしか知らない国だったけれど、ただ写真や地図を見るだけで、いろいろなことが分かった。字や言葉が分からなくてもいろいろなことを知ることができるということが分かった」(E5、M君)というような反応を示している。
 彼女はこうした言語の話から、肌も目の色も異なる人たちがハンガリー人としてアイデンティティをもつにはいろいろな文化的要素があるが、一番大きいのは母語としてのハンガリー語である、という点に注意を向けさせていく。私の祖先も千年以上前に民族移動してきた古ハンガリー系ではないでしょう。だれだってそんなことは分からないし、さまざまな血が混じっている。それでもハンガリー語は絶えなかったし、ハンガリー語という共通の言語で結ばれてきたのです。

 国籍と民族籍の違う人はこんなに多い
 ハンガリーの人口は一千万、その九割以上がハンガリー人といいましたが、ここにはハンガリー人は約千五百万人とあります。ということは、三分の一がハンガリーの国境外に少数民族として暮らしていることになります。アメリカへの移民もかなりいますが(約百万人)、その大半は隣の国々に住んでいる。これは一例にすぎません。大事なことは、この図典でも分かるように、あの小さなヨーロッパだけでも、三十数カ国の国家に対して約七〇の言語があり、一億以上の少数民族がいるということです。つまりヨーロッパ人の七人に一人が少数民族に属するわけです。世界ではどのくらいの言語が話されていると思いますか。一〇〇とか五〇〇とかいう答えが返ってくる。実に三千とも八千ともいわれているというと、仰天する。
 ところで、ハンガリー人が千五百万という数字はどうして分かるかというと、主に母語を話す人の数を根拠にしているからです、と彼女は続ける。ヨーロッパの国勢調査では、たいてい母語申告の欄があり(書くか書かないかは個人の自由ですが)、なかには民族申告、つまり自分では何人と思っているかといった欄がある国もあります。もちろん民族差別の強い国では、自己に不利になるため書かない人もかなりいます。最終的には自分で民族籍としてのナニ人かを決める権利をもつというのが近年の考えです。他人が口だすべきことではない、というわけです。
 こうしたことから、複数の民族が一つの国家を形成している場合が多いということが分かるでしょう。ということは国籍と民族籍が違う人は多いということでもあります。だから、その区別が曖昧な日本語で、あなたはナニ人と訊かれても、答えようがないのです。ここまできて、学生たちは、やっと事の重大さに気づく。ある学生はそのショックをこう書いている。「自分を含めて日本人は世界の民族との接触についてあまりにも経験不足であることが分かった。深谷さんの母国ハンガリーでは肌の色や髪、目の色などの違う人が混じって生活していることに、今まで自分が持っていたヨーロッパの国々に対する固定観念を壊された気がする。よく考えてみると、たしかに自分の国は普通ではなく、他の国々が普通だと思う。深谷さんと接触したことで、今まで自分の描いていた世界観のようなものが少し変わったのではないかと思う。そして自分の世界に対する知識のなさも知った。深谷さんに感謝したい」(E5、K君)。

 私の子どもはナニ人か−−国籍問題
 さて、親が日本人だから日本人だという意見がありました。では、日本人の夫との間に生まれた私の子どもはナニ人でしょうか。少なくとも国籍上はどうでしょう? 米国の場合、両親が日本人でも、それもたまたま米国滞在中ですら、そこで生まれれば自動的にアメリカ国籍にもなる。(日本国籍も認めるいわゆる二重国籍で、子どもが成人したとき、自分の意思でいずれかを選択する。ただし、日本は二重国籍を認めていないから、日本の戸籍に届ける時点でアメリカ国籍を放棄しなければならない。)つまり米国の場合、国籍は現地主義(出生地主義)です。日本ではそうはいかない。私の子どもは確かに日本国籍をとれるが、夫がハンガリー人で妻が日本人という逆の場合は簡単には認められない。つまり男親が日本人でなければならないのです。ヨーロッパの場合は、両親のいずれか一方がその国の国籍であればよいので、日欧ともアメリカとは違う血統主義だけど、相違がある。ちなみに、かりに私が日本に帰化しようとすると、これまたそう簡単にはいかない。法的な適格のほかに、法律の条文にはどこにもないけれど、日本風の名前に変えなければならないといった運用上のさまざまな厳しい慣例があるからです。
 このような話をしたあと、民族国家というのは本当は抽象的なものにすぎないことを考えさせ、最後に、改めてハンガリーのイメージがどうかわったかを、最初の紙片の裏に書かせてから、持ってきたハンガリー産のドライソーセージの薄切りをみんなに試食させて、十五分ほど時間をオーヴァーした講義を終えた。

 やはり日本の「授業」とは違う
 学生の評価はきわめて高かった。「一番インパクトがあったのは授業にベルタさんが来たことである。彼女は日本語がうまくて、漢字が書けてとても分かりやすく話をしてくれた。国のことを説明すること一つにしても、なじみやすい音楽の話題から入り、ビートルズの音楽などを聴かせてくれて楽しかった。そして地図を見せることでも基本的なことを質問して、難しいことは一つも聞いてこなかった。おかげでドナウ川が流れていることも知ったし、ブダペストが昔はブダとペストという二つの都市だったことも覚えた。ぜひヨーロッパに行きたいと思った」(C5、A君)「ハンガリーの授業は今までと違った感覚で、また違った角度から《国際教養》のおもしろさを感じることができた。ハンガリー人の先生の授業は、やっぱり日本の《授業》とは違うものを感じる。生徒の興味を完全に自分が教えてるものに集めさせることを行っている。カリキュラム的でなく、かたくるしいものもない。なんとなく小学校での授業をうけているようで、懐かしささえ感じた」(C5、O君)
ここには、先生自体が日常とは異なる「生きた教材」だったという新鮮な驚きと同時に、この先生の授業がO君の指摘するように、なかなか巧みであることに驚いてることが読み取れる。
 ベルタは、私との打ち合わせのとき、こう言ったものである。日本の講義は情報の詰め込みすである。実は私も、前はいろんな情報を与える講義をしていた。ところが、結局のところ何にも残っていないの。そのうち、気づいたのね、一方で高校までにものすごい情報を、自分の関心がないものでも詰めこまされてきたことに。そして、とにかく受験まで過多な情報に追いつくのに精一杯。自分で必要な情報を選択することがない。だから、索引で見つけることさえ知らない大学生が結構いる、というのである。それに気づいてから、どうせ忘れる情報より知らないことをどうやって知るかを学ばせるほうが、これからは役立つと思って、授業方法を変えたという。いかにも心理学者らしい授業方法で学生を引き付けていたのには、私自身学ぶことが多かった。
 彼女はハンガリーを知ってもらいたいと同時に、あくまでもハンガリーという一例を通して、民族と国家について考える上での、私たちの認識が欠けているものを気づかせてほしいという私の依頼にこたえてくれた。これはなかなか難しいことで、現実には、「人種の複雑で戦争の多いヨーロッパではなく、単純で平和な日本に生まれてよかった」といった反応が出てくる。彼女は回収したイメージ調査に、いちいちコメントをつけて、このような反応に対してフォローをしている。試験ではなく、こうした方法による理解チェックと対話はもっと活用されてよいであろう。

   
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