高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校教育方法改善プロジェクト
1994/03/24発行

   


  
こんな授業を待っていた

   
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T人文・社会・外国語系の授業がいまおもしろい
  2. おもしろ授業戦略

 

 ●鈴鹿市市制五十周年記念事業の教材化(95〜106P)

  大 黒 屋 光 太 夫          小谷信行   鈴鹿工業高等専門学校助教授

   鈴鹿市の誕生と発展
 
   

 この授業は、学生に鈴鹿市の歴史を理解させるところから始まった。
 日本が太平洋戦争に突入した昭和16年当時の鈴鹿地方には、河芸郡の白子に鈴鹿海軍航空隊、鈴鹿郡の平田に鈴鹿海軍工廠、広瀬に陸軍北伊勢飛行場、石薬師に気象観測部隊、高神山に航空教育隊というように、つぎつぎと軍事施設が建設され、軍都としての色彩が濃厚になっていった。これらの施設を統轄する軍としては、諸施設の所在地が鈴鹿郡と河芸郡というように、行政区画を異にしていたのでは、運営上不便であるという理由で、昭和17年12月1日、河芸郡二町七ケ村、鈴鹿郡五ケ村を合併して、鈴鹿市が誕生した。従来の都市の合併のように、中心となるべき都市があって、隣接町村を合併するのではなく、中心都市のない異例の市制であった。このような観点から見れば、鈴鹿市は、太平洋戦争によって生まれたとも言える。
 翌昭和18年、初代市長に奥田茂造氏が就任したが、昭和20年8月15日に終戦を迎えるにいたった。鈴鹿市は、戦災をうけることは少なかったが、これらの軍事施設を平和産業に転換する必要に迫られ、昭和21年に二代目市長に就任し、全国一の若い市長として注目を浴びた杉本龍造氏は、工場誘致に精魂を傾けた。
 その結果、「旭ダウ鈴鹿工場」、「本田技研工業鈴鹿製作所」、「敷島カンバス鈴鹿工場」、「川崎電機(現富士電機)三重工場」、「鈴鹿サーキット」、「藤倉電線鈴鹿工場」などの大企業の誘致に成功し、鈴鹿市繁栄の基礎を築きあげた。
 その間、周辺の町村を合併し、西は鈴鹿山脈から東は伊勢湾にいたる広大な市域を擁することになった。そして、昭和37年4月には、鈴鹿工業高等専門学校がこの地に開校されるにいたった。
 さらに、21世紀を目前にして、国際交流がクローズアップされる中で、鈴鹿市はフランスのル・マン市とモータースポーツを通じた友好協力協定を結び、アメリカのベルフォンテン市と友好協定を結んだ。これらの気運に乗じて、鈴鹿工業高等専門学校でも、留学生の受け入れ、アメリカのオハイオ州立大学やカナダのジョージアン技術大学と学術文化交流に関する協定を締結するなど、国際交流に努めてきた。

 

   鈴鹿市市制五十周年記念事業
     平成4年に、鈴鹿市は市制五十周年を迎え、いろいろな記念行事が企画された。「鈴鹿市市制五十周年記念式典」をメインとして、鈴鹿市のマスコット・キャラクター「ベルディ」の制定、鈴鹿市の過去を振り返る写真展「目で見る50年史」、鈴鹿市の伝統工芸である伊勢型紙と鈴鹿墨を強くアピールする「伝統産業フェア」、「大相撲鈴鹿場所」など多彩な催し物が行われた。
 さらに、「国際親善バレーボール大会」、「ロシア宮廷美術展」、「ベルフォンテン中学生招致事業」など国際交流時代にふさわしい記念事業が行われた。
 また、故井上靖原作・緒形拳主演による映画「おろしや国酔夢譚」の公開で、鈴鹿の国際交流の先覚者として、広く知られるようになった大黒屋光太夫に関する記念事業も多彩で、今から200年前に、光太夫たちが乗り組んだ神昌丸が船出した白子新港に、井上靖の文学碑「大黒屋光太夫・讃」、彫刻家三村力のモニュメント「刻の軌跡」などの記念碑が建てられた。前年に来日したゴルバチョフソ連大統領も、宮中晩餐会でのメッセージの中で光太夫に触れた。
 このような状況の下で、本校では、大黒屋光太夫を国際化時代における郷土の偉人としてとらえ、
教科内総合化の一例として、第二学年の「国語U」の授業に取り込むことにした。

 

 大黒屋光太夫の教材化
 当時、第二学年の「国語U」(三単位)の授業は、西岡将美助教授と小谷信行講師(現助教授)の専任教官2名が担当していたが、郷土の国際交流の先覚者大黒屋光太夫の教材化にあたり、協議のうえ次のように実施することになった。 
 実施対象学年は第二学年とし、「国語U」の授業時間の一部をもってこれに充てることにした。 まず、平成4年4月の新学期開始に当たって、教科書の他に副読本として、井上靖著『おろしや国酔夢譚』(徳間文庫)を購入させることにした。この本を選んだ理由は、同書が映画「おろしや国酔夢譚」のスチール写真を豊富に掲載していたからである。そして、学生に対しては、とりあえず各自で読むように指導した。
 次いで、平成4年7月に、本校図書館が主催し、国語の夏期休業中の課題ともなっている「読書感想文(四百字詰原稿用紙3枚)コンクール」の課題図書(随筆集10冊・海外の文学10冊・日本の文学15冊)の一つとして同書を指定した。他に漂流物として『十五少年漂流記』を指定した。その結果、約30パーセントの学生が『おろしや国酔夢譚』(徳間文庫)を読み、その感想文を書いている。このときの入選作品の課題図書名は、

第一学年 『老人と海』 『十五少年漂流記』 『かもめのジョナサン』
第二学年 『パンドラの匣』 『車輪の下』 『おろしや国酔夢譚』
第三学年 『十五少年漂流記』 『伊豆の踊子』 『春の嵐』

であり、『おろしや国酔夢譚』(徳間文庫)についての入選感想文は一件だけであったが、同書に関する選外の感想文のうちから、特に印象的な部分を抜粋してみると、次のようになる。

○人間には、努力はもちろんだが、いろんなことが必要だ。しかし、人間の力では、どうすることもできないことがある。

○光太夫たちは、なんとかアムチトカ島に流れ着き、助かりました。自分たちとは違う顔や言葉をもつ人たちに囲まれて、これから生きていかなければならなくなったということは、とても口では言えないくらい不安だったと思います。今、僕たちは楽々と暮らしているけど、日本に出稼ぎに来た外国人労働者の人達と、何となく似ているなあと感じました。

○現在の日本では、難民を受け入れるのに戸惑っているが、ロシアの人々は、すなおに(光太夫たちを)受け入れてくれた。とてもよいことだと思う。

○ロシアの国の人々も、とても親切な人ばかりだと思った。漂流民をあそこまで親切にしてくれる国は、どこにもないだろうなと思った。イルクーツクでも漂流民がロシア人以上の生活をしているとは、とても驚いた。

○彼らの行く手をはばんだのは、日本では味わったことのない寒さであり、その寒さがもとで足を失った者もいた。このような状態の中で、光太夫だけは積極的にロシア語を覚えたり、見聞きした珍しいことなどを書とめたこの行動力と、最後まで希望を捨てなかった精神力で、光太夫は日本へ帰ることができたのではないだろうか。

○江戸時代の鎖国をしているとき、まだ航海技術の発達していないときに、このような異国の地で帰国のためによく頑張ったと思う。

○僕の祖父に聞いたことであるが、白子港、千代崎港は、現在立派な漁港として成り立っているが、昔は突堤があっただけだと聞く。(中略)光太夫一行の船の舵が折れたとき、どうやって船を目的地に着けたものかということを、僕の祖父に聞いてみた。するとこんな返事が返ってきた。舵が折れた場合は、トモを進行方向に向け、両サイドにロープを流し、ロープの長短を加減して、船を目的地に着けるというものであった。

○僕はこの本を読んで、世界から見た日本、そして鎖国をすすめている日本の上の方の人間達が、いかに小さな存在であるかということに気付いた。

○光太夫の持ち帰ったロシアの品物が、今どうなっているのかを知りたくなったし、光太夫に関したロシア人の書いた本も読んでみたい。

 さらに、平成4年11月に入ってから、「国語U」の学習資料として、井上靖原作、佐藤純彌監督の映画「おろしや国酔夢譚」のパンフレットをもとにした、次のような内容のプリントを作成し、授業時間中に配布した。

○『おろしや国酔夢譚』を学習するにあたって
  ロシアで見たことは夢だったのか・・・・・・
     鎖国の世に世界と出会った男がいた・・・・・・大黒屋光太夫
  鎖国の世に世界を見た男たち・・・・・・
     それはすべてが・・・・・・想像を越える体験だ。
  日ソもうひとつの歴史に光をあてながら・・・・・・
     夢はいま・・・・・・壮大な真実となって蘇った。
  映画「おろしや国酔夢譚」について

○『おろしや国酔夢譚』学習資料
  井上靖の歴史小説の展開
  井上靖『おろしや国酔夢譚』について

○学習課題
 『おろしや国酔夢譚』(徳間文庫)から次の四箇所を抜粋し、リーダーとしての光太夫の心の動き、仲間との心理的葛藤を中心に、鎖国を国是とした往時の社会的背景などについて、ディスカッションさせるための資料とした。

◆「宿舎へ戻ると、光太夫は一同にイルクーツク行のことを伝えた。(125頁6行目) 〜 光太夫の言い方が烈しかったので、機先を制せられた形で、誰も文句を言うものはなかった。(127頁1行目)」

◆「6月28日が拝謁の日と定められてあったので、前日の27日はその準備のために忙しかった。(264頁1行目) 〜 「この者の帰国の願いはずいぶん前々からのものと思うが、いかにして耳にはいらざりしや」と、女帝は言った。誰も答える者はなかった。(269頁10行目)」

◆「この夜、光太夫と磯吉は熟睡できなかった。(354頁3行目) 〜 どこへ連れて行かれようが、もう決して自分が理解されぬであろうということだけが確かであった。(362頁8行目)」

◆「光太夫は吹上の上覧所で、なぜ故国へ帰ることを希望したかという問いに対して、老母妻子兄弟が居るからという答えをしたが、(378頁11行目) 〜 それどころか、自分の見て来たものを匿さねばならぬ始末だ。(378頁13行目)」

 また、『漂流奇談集成』(『叢書江戸文庫』1、国書刊行会、1990年5月)、『近世漂流記集』(荒川秀俊編、法政大学出版局、1969年8月)などにより、他にも多くの漂流者があったことを教え、それらの者と比較して、光太夫がいかに秀れた人物であったかを理解させた。
 同時に、平成4年11月20日に、国指定の重要文化財として答申された『北槎聞略』等の関係書籍を紹介したり、架空の人物ではあるが、ロビンソン・クルーソーやガリバーにまで話題を広げた。
 さらに、「国語U」後期中間試験問題のうち、約40パーセントを光太夫らの内面心理の動きを中心にして、『おろしや国酔夢譚』(徳間文庫)から次のような設問を出題した。

○「いいか、みんな性根を据えて、俺の言うことを聞けよ。(126頁3行目) 〜 光太夫の言い方が烈しかったので、機先を制せられた形で、誰も文句を言うものはなかった。(127頁1行目)」から「いいか、みんな、自分のものは、自分で守れ。 〜 自分の命も、自分で守るんだ。」、「ひとりで出掛けて、いい加減なものを買って来るんじゃねえぞ。買い物にはみんな揃って出掛けるんだ。いいな。」という表裏一体の関係にある光太夫の言葉を念頭に置いて、光太夫の心の中の考えを答えさせる問題。

○「この夜、光太夫と磯吉は熟睡できなかった。(354頁3行目) 〜 箱館に上陸したとたんから、それは押せども突けども動かない鉄の壁のようなものとして立ちはだかって来ていた。(355頁9行目)」から「鎖国」という国是を、光太夫と磯吉とがそれぞれどのように受け取っているかが現れている文中表現を指摘させる問題。

○「併し、光太夫も亦この夜には、終生忘れられぬ思いを持ったのであった。(361頁11行目) 〜 どこへ連れて行かれようが、もう決して自分が理解されぬであろうということだけが確かであった。(362 頁8行目)」から光太夫の孤独感を文中で適切に言い表している箇所を指摘させる問題。

 さらに、平成4年10月31日(土)から11月2日(月)まで、創立三十周年記念第29回高専祭が開催された。そこで大黒屋光太夫の教材化の一環として、映画「おろしや国酔夢譚」を上映し、学生及び教職員だけではなく学外者にも鑑賞させた。このときは青峰寮祭などのときに上映する16ミリフイルムを使用したものではなく、劇場用のフイルムを使用して移動用の映写機で上映したので、迫力、鮮鋭度、音響効果ともに抜群であった。高専祭という解放された雰囲気のなかでの映画鑑賞であり、学生達の心に深い感銘を与えた。

 

 大黒屋光太夫歸国二百年展
 平成5年1月、鈴鹿市、鈴鹿市教育委員会の主催により、「大黒屋光太夫歸国二百年展」が鈴鹿市文化会館で開催され、ゲッチンゲン大学図書館、各寺社並びに個人所蔵の光太夫関係の遺品、遺墨等が展示されたので、各自で見に行くように指示した。
 本展示の目玉である光太夫自筆の手紙、光太夫が描いた日本地図三枚などを、ゲッチンゲン大学図書館から借り受けるに際しては、本校ドイツ語担当の都築正則教授が通訳を兼ねて交渉にあたった。
 この展示を見た学生の感想を総括すると、大略次のようなものであった。

○日本人は、長期間外国語を学習しても、日常会話すら満足にできないと言われているが、光太夫の事績を知って、外国語の勉強に自信を持てるようになった。

○鎖国中の江戸時代にあって、一介の船頭にすぎない大黒屋光太夫にして、これだけの教養をもちあわせていたのだから、当時の日本人の文化は、世界中でも上位にランクされるのではないかと思う。

○光太夫の書いた手紙、作成した日本地図、所持していた浄瑠璃本などが、ロシアから遠く離れたドイツで大切に保管されていたことに驚いた。

 

 まとめ
 これらの学習を通じて、学生の印象に残ったものを、順に並べて見ると、一.映画「おろしや国酔.小説『おろしや国酔夢譚』、三.歴史的事実である。すなわち映画ではこのようになっていたのに、小説ではそうはなっていなかったという類いの感想が非常に多かったということである。また、前記の井上靖の文学碑「大黒屋光太夫・讃」、彫刻家三村力のモニュメント「刻の軌跡」や大黒屋光太夫顕彰碑、大黒屋光太夫供養碑などを訪ねてまわるフィールドワークも計画したが、二年生全クラスの授業時間帯を同一の時刻に揃えること、自転車等の交通手段の確保などに支障があり、実現するにはいたらなかった。
 学生の反応としては、こんなに身近に国際交流の先駆者がいたのかという驚きと、鎖国の時代であったとは言うものの、実際にはかなりの外国情報が入ってきていたということから、これまでの学習では知ることのできなかった江戸時代の一側面を見ることができたという感想を抱いた者が多かったようである。
 この度の「大黒屋光太夫の教材化」の試みは、高等専門学校における国語授業の活性化の一つの方法として、一応の成果が得られたと評価しうるであろう。

 

 
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