高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校教育方法改善プロジェクト
1994/03/24発行

   


  
こんな授業を待っていた

   
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T人文・社会・外国語系の授業がいまおもしろい
  1 学生いきいき

 

 ●哲学で自分発見(65〜78P)

  哲 学 す る 若 者 た ち              野澤正信       沼津工業高等専門学校助教授

 

 

   

 教思想史を通して哲学を教えるとき、知の探求という哲学の原点からどんどん逸脱していくことがある。哲学用語の理解は決して無駄な知識ではない。概念をもってはじめてことがらの理解が成り立つから。しかし、概念の解説にあけくれるとき、哲学はわけの分からない、ひとりよがりのおしゃべりだという印象を与える。物理学者ファインマンは、哲学をそのように理解した人の一人で、彼の本に現れてくる哲学者は決ってグダグダ、グダグダ意味不明なことを話す人物である。ところが、逆説的なことだが彼自身は知の探求者として実に哲学的だった。そんなファインマンを教育したのは、父親だという。彼の自伝風の文章に、次のような一節がある。
 父は週末毎に私を森へ散歩に連れていって、森の中で起こっているさまざまな面白いことを話して聴かせてくれた。他の家の母親たちがこれを見て、素晴らしいことだと思い、ぜひ自分の所の父親たちにも息子を散歩に連れていってもらいたいと考えた。そこで父親たちに働きかけたが、はじめは誰も従わなかった。そこで、私の父に子供たちを一緒に連れていってくれるよう頼んだ。しかし、父は断わった。父は私と特別な時間を持ちたかったからだ。それで結局、他の父親たちも次の週から子供を散歩に連れてでることになった。
 月曜がきて、父親たちがみんな仕事に戻って、子供どうしで野原で遊んでいたとき、一人の子が私に聞いた。「ほらあの鳥、なんていう鳥だ?」「なんていう鳥だかぜんぜん分からないよ」と私は答えた。「あれはツグミさ。きみの父さんはなんにも教えないんだね。」とその子はいった。
 しかし、事実は逆だった。私は父からもうこう教わっていた。「あの鳥をごらん。あれはスペンサー・ぴちぴち鳥だ。」(私には父が本当の名前を知らないことがわかっていた。)「ええとね。あれはイタリア語ではチュット・ラピッティダ。ポルトガル語ではボム・ダ・ペイダ。中国語ではチュン・ロン・タ。日本語ではカタノ・テケダっていうんだ。世界中のことばであの鳥の名前は覚えられる。だけど、ぜんぶ覚えても、あの鳥がどんなものかは少しもわかっていないんだよ。ただ、所が変われば名前の呼び方も変わるってことしかわかっていないんだ。だから、あの鳥をじっと見て、何をしているかを理解するんだ。それが大事なんだよ。」(私は、ごく幼いうちに、ものの名前を知ることとそのものを知ることの違いをならった。)

 教える側には教えたことをできる限り学生に憶えてもらいたいという期待がある。しかし、習得してもらいたいことは何なのか。思想史を教えるとき、それは思想史のさまざまな事項なのか。知は力なり。しかし、力となる知は何か。ファインマンの父親は自分の子を科学者にしようと望み、それを実行した。彼自身は科学者でも哲学者でもなかったが、知の本質を見抜いていた。それはソフィストたちから学んだ知をもって満足しようとする若者たちに対話をしかけるソクラテスの精神に通ずる。ファインマンは知の蓄積ではなく、知の探求の仕方を父親から教わり、物理学者となった。
 三年前から90分の授業のうち思想史の講義は半分ほどにし、半分は学生の小論の発表に当てている。学生にみずから哲学してもらいたいと思うからである。実は、この学生に発表させる方法は十年ほど前にも試みたことがあった。そのときは結局うまく行かず、すぐにやめた。失敗の原因は思想史にこだわりすぎたからと思われる。年度の初めに思想家のリストを学生に示し、自分の担当したい思想家を選ばせて、その思想家について調べたことと自分なりの考えを十分ほどの時間で発表させた。熱心に本を読みあさり充実した内容の発表をする学生もいて、彼らの作った資料はいまでも私の講義のノートに生きた資料として綴じてある。しかし、多くの学生は元来興味のないことに努めて面白味を発見しようとする積極的な姿勢を見せることがなかった。おざなりな発表が続いて、打ち切りとなった。ただ、思わぬ副産物はあった。この試みをしている間は図書館の哲学分野の貸出数が異常に高くなった。今年で三年目にはいる今回の試みは前回の場合よりうまくいっている。与える課題は「幸福」で、幸福に関することなら何を論じてもよい。もちろん、ろくすっぽ準備せず聞くに耐えない発表をする学生がいないわけではない。クラスによっては、小論の作り方と口頭発表の仕方について口うるさく注意を繰り返すこともある。そういう意味でこの授業が成功しているとはいえない。ただ、以前と比べると明らかに生き生きとした発表をする学生が増えている。教えているというよりも教えられているのだと感ずることがある。また、まれではあるが、一人がよく考えぬかれた刺激的な発表をすると活発な討論が生まれ、それが連鎖反応を起こして、次の発表者も力のこもった議論を展開し、クラスに熱気が漂ってくることもある。以下に紹介するのは、学生の小論の中の三篇の抜粋である。

 

   「哲学レポート」    工業化学科 五年 星野聡美
   

 「幸せって何かな」と考えると、思い出す海があります。こんなことを言うと、「恋人と見た夕陽」とでも言いだしそうで、「ゲゲッ」と思われるかもしれませんが、私の場合この海を思い出すと、言いようもないもの悲しさで、目頭が熱くなってしまうのです。
 この海は、愛知県美浜町の小さな海水浴場です。私は15日に編入学試験を終え、「やることはすべてやったよ」という、心は硬直したような、またのんびりしているようなそんな気分で、親友のアパートに遊びにきていました。7月22日は、夏の日差しがギラギラ照りつける、まさに夏本番といった、暑い日でした。
 「私にとって高専生活は何だったのだろう・・・・」今まで『化学』をおもしろいと感じることができず、「なんでこんなことをやってるんだろう」と空虚感でいっぱいになり、人の笑顔で孤独すら感じる無気力な毎日でした。五年の四月になり、大学受験に向けて周囲が勉強をしだした時、私は抑圧していた自分の気持ちから逃げるので必死でした。「何かをしようと頑張ったって、むなしくなるだけさ。もう、こりた」と。本当は「できる」ということを、そのうれしさと充実感を、五年間捜していたと思います。その最後のチャンスが、私の心の中では、大学受験でした。高専生活を「良かった」と思える何かを、そして何かを達成するために頑張るという充実感が欲しかったんだと思います。・・・やればできる・・・自分でも不思議なくらい率直な気持ちでした。
 友人と一緒に勉強しているとき「今が一番幸せなのかな」と何度思ったか知れません。昔のテストをやり直していると、時間までやり直せているような、「良かったな」というほっとした気分と、間違えた問題ができたときの「なんだ、こんな簡単なことだったのか!」という、嬉しさでいっぱいでした。不本意のまま暮らしてきた五年間を、間違えた問題とともに消しゴムで消してしまい修正していくような毎日。そんな中から私は、「高専生活をつづっていく紙があったなら、丸めて気のすむまでぐちゃぐちゃにし、あげくはゴミ箱に向かって投げつけて、そのままほったらかしにしておいたからこそ、今、その紙を広げてみようかな、という気持ちになれたんだな」と思うようになりました。「達成」や「効力感」は誰もが認める「幸福」のひとつです。そのような単純なことに目がいかず、自分にとってプラスになることを見つけようとすることから逃げだしながらも、捨てきれなかった高専生活から、「投げ出したものを、もう一度見つめ直す」という私なりの「幸福」を見つけました。
 結果の通知を頼んだ学生からの、合否の連絡は、とうとうありませんでした。私は、きらきら光る波を、ぼうっと見つめていました。浜辺では親子連れが、ビーチボールで遊んでいました。女性は東南アジア系の人で、たったそれだけのことで私は、その存在すら認めたくないと思ったのですが、彼女がボールを取りに私の視界に入ってきました。お愛想ではなく、心から幸せそうな、にこっとした笑顔に、堪えていた涙が、ぽろぽろあふれてしまいました。
 幸せとは「価値を見つけることだ」と思います。心を割って話せる友人、大切だと思える人、どんな時でも最後まで自分を信じてくれる両親。その存在の大切さに気づくことが、そしてそのような心を持つことが、幸福の第一歩だといえるのではないでしょうか。世の中ストレートに「よかった」と思えることばかりではありません。また、知らないうちに感謝どころか、それが当り前になってしまうものです。すると平凡という目に見えない生活の歯車みたいものがひずんできて、毎日が「何かいいことないかな」と幸福から遠のいてしまうのでは、そんな気がします。「疲れたなあ」と感じたとき、何気なく自分の生活を振り返ってみると、他人への思いやりどころか自己中心的な自分に気が付きます。そしてその「気がつく」ということが大切なのではないでしょうか。
 私たちは、毎日時間に追われ、するべきことに追われ、また、人の何気ない一言で傷ついたり、目に見えない権力のようなもので押さえつけられたり、このような生活の中で心を優しい状態に保つことは、なかなか容易ではありません。「優」という漢字は「憂い」に人が寄り添って「優しさ」になるという話を聞いたことがあります。また、「優しくなろう」と自覚したとき、その優しさは、本物ではなくなるとも言います。優しさとは抽象的で難しいものですが、私は赤ちゃんを見ているときの心の状態というのは、誰でも朗らかな気持ちになれ、心が優しい状態なのではないかと思います。私は根本的に「美」や「優」などを考えると「赤ちゃんに勝るものはないだろうな」と思っています。中国の思想に同じような考えの思想があるようで少しびっくりしました。大切なことは、自分なりの心が優しい状態、また、心に余裕があり、自分の生活を振り返ることができる状態を意識し、そのことにどれだけ価値をおいているかだと思います。

 

   「幸福論」    機械工学科 五年 玉城匡
   

 幸せ・・・・僕が、この言葉から受ける印象は、何かとても暖かく、自分勝手で、手にしていると思えばふと目を離した瞬間、手の届かない所に登ってしまう。とても悲しいけれど、とてもうれしいような、考えていくうちに、なんだかどんどん分からなくなってしまうような、まるで井上陽水の歌のようなものだ。
 しかし、いきなり『幸福論』とは、むずかしい問題だ。なにしろ実体がないのだ。きっちりとした定義がない。人それぞれとらえ方が違うのだ。
 まず、自分の幸福について定義したい。幸福とは、「心の充実」だ。精神的に充実し、気力に満ちあふれ、刺激を求め、変化を求め、そしていつの日か過去を振り返ったとき、後悔など一片もなく、「いい人生だった。」と言える。それが幸せだ。やりたいことをやり、生きがいがある。そうありたいと思う。
 ある人は、安定こそが幸せというかもしれないが、僕は変化こそが幸せだと思う。しかし今、「おまえは幸せか?」と聞かれたら何と答えるか。少しまゆをひそめ、少し間をとり、そしてこう答える。「幸せだが、幸せではない。」と。ちょっと意味ありげで、それでいて何だかよく分からない返答だが、つまりこういうことだ。僕は今五体満足で食べ物に困ることはなく、大した悩みもなく、順調に行けばこの春留年もなく卒業でき、短大卒という肩書まで手にはいる。望めば一流企業にも就職できる。全くの幸せ者だ。他人は僕に羨望のまなざしを向けるかもしれない。
 だが、幸せではないと言ったその意味は、こういうことだ。・・・刺激がない。精神の充実がない。何故ならば、今僕は自分の本当にやりたいことをやっていない。できないというべきか。こんなことを言ったら、両親や先生に怒られるかもしれないが、学校がつまらない。面白くない。僕は英語の勉強をしたいのだ。世界中を旅したいのだ。他人がこれを聞いたら、きっと「白日夢を見ているバカガキ」と思うだろう。しかし、これこそ、僕のやりたいことなのだ。だが、今やっていることは、技術の勉強。自分の歩みたい本道より外れている。できることなら今すぐ学校をやめ、お金をため、英語を勉強し、アメリカに飛んで行きたいところだが、それでは余りにも両親に申し訳無い。ゆえに今出来ることといえば、出来るだけ早く学校を卒業し、義務から解放されることだ。ちょっと自分の夢について熱っぽく語ってしまったが、つまりは幸福とは、心の、精神の充実だ。
 しかしこれは、衣食住に不自由なく暮らしている場合にのみ考えられる。例えば、第三世界の人々についてはどうだろうか。果して精神の充実こそが幸福だと考えているだろうか。・・・・否。彼らは暖かい服を着ることこそが、空腹を満たすことこそが、しっかりとした住居をもつことこそが幸せであり、僕のような夢を抱く人など、きっといないだろう。それを考えると、何と私は幸せなんだろうと、ふと先に定義した幸せとは違った幸せを感じてしまうのは、なぜだろうか。
 幸せになる条件とは何か。それは、時の流れの速さを嘆いたりせず、日々一歩一歩、その瞬間その瞬間を大切に生きて、充実した人生を送る、ということではないだろうか。だがこれを実行するのは、決して楽なことではない。できないからこそ、世の中には多くの不幸せものがいるわけだ。もちろん、みんなが幸せなら、「幸福論」など考える人はきっといないだろう。

 

   「幸せとは、幸福とは何か」    電気工学科 五年 神谷猛
   

 「デュナンはさ、幸せって何だと思う?」「私よ、私の事。」
 昔見た映画の中に、こんなやりとりがあったのを思い出します。映画自体の内容はほとんど覚えていませんが、この場面だけは鮮明に思い出せます。デュナンという名の主人公は当然といった顔でさらりと答える。質問したほうは、余計にわけがわからなくなったという顔で隣の男と顔を見合わせる。
 「幸せ」、「幸福」とは何か?人間は誰しもそれを求めて生きているにもかかわらず、その本質についてはあまり考えたりしないものです。哲学者や政治家は別として、結局、人間はそういう状態になれば、そういう感情を持つことができれば、いいのでしょう。幸せとは何か、と考えることは既にタブーの域を侵しているとさえ思えます。パンを食べる際に、小麦の形を想像するようなものです。普通そんなことはしません。なぜしないのか?それは「幸せとは何か」と考えることが、その幸せに直接結びつかないからです。しかし、私は敢えてそのタブーを侵します。そうすることによって自分の思想が少しでも変化していけば、ほんの少しでも幸せになれるから。
 「幸せとは、幸福とは何か?」まずは、人間がどんなときに幸せだと感じるのか、何が幸せなのか、どんな状態が幸せなのか、そこから調べていくことにしましょう。
 人が幸せを感じるものの中で最も悪質で最もポピュラーなのがお金です。現代社会において、とりあえず先立つものはといえばこれです。お金さえあれば何でも手に入り、どんな事も可能になります。今では、そうならないものの方が少ないくらいです。そして、このお金によってそのほかの様々な幸福が成り立っていきます。例えば、食べ物、着る物、住む所。これら三つは衣食住とよばれ、人間が生活していくうえで最低限必要なものです。そして、それを求めるのに必要なのがお金というわけです。また、これ以外にもお金で買えるものがあります。これまでは形のあるものでしたが、目には見えない無形のものもお金で買うことができます。まずは地位や名誉です。かって、これは才能と努力によって手に入れるものでしたが、現在は才能さえもお金で買えるものになってしまいました。このようにお金によって得られる幸せはたくさんあります。
 しかし、それらはどれも俗っぽく質の悪いものばかりです。そしてとても脆く壊れやすいものです。確かに、人はそれによって幸せだと感じることはできますが、しょせんはその程度のものです。ここから後はお金で手に入れることのできない、手にいれにくい幸せを探していきます。まず、その代表は愛です。私はこの分野についてはあまり詳しくはありませんが、どうやら人は愛によって幸せになれるようです。しかも、本当の愛というものはお金では絶対に買うことができず、壊れたりしないそうです。私にとっては幸福と同じくらい難しく不可解なものですが、とにかく、愛は幸せにつながるものです。次に、趣味というものも幸せになりえるものです。自分の好きなことをしている時、それに没頭できる時、そういう時はとても幸せです。私は物を作る、とくに電気関係の工作が大好きですが、頭をひねって手を動かして何かを作っているときはとても幸せを感じます。またその作った物が思っていたとおりの、あるいはそれ以上の動きをしてくれた時はさらに幸せです。またその他にも、体験や経験というものもあります。偶然わが身にふりかかった事柄や、昔の思い出というのは、その時はつらく苦しいと思っても後で振り返ってみると幸せに感じることがあります。さらに、健康というのも幸福なものです。お金がなければ健やかな暮らしはできないことは確かですが、健康をお金で買えるものに入れてしまうのはあまりに忍びないので、あえてお金で買えないものの方に入れました。最後にあげるのは平和です。戦いにおびえることもなく安穏と日々を暮らせることほど幸せなことはありません。平和には俗なところがないという良さがあります。とりあえず、こんなところが私が思い付くかぎりの幸せです。当然、これが幸福のすべてというわけではありませんがね。
 ここからはいよいよ、その幸福の中身を考えていきます。しかし、例だけを見て漠然と考えていても答えはまとまりません。数学の教科書の問題を解くときに例題だけではなかなか理解できないのと同じです。そんなときどうするか。理解することが目的なら解答を見ます。見るというより参考にすると言ったほうが聞こえがいいかもしれませんが。とにかく、答えを見てやり方を逆算していきます。ここでも同じ方法でやってみましょう。それでは解答はというと、そう辞書です。当然、これが最終的な答えではありませんが参考にはできます。手持ちの辞書には「心配なことや苦痛に思うことがなくて、満ち足りた理想的状態。これ以上望むことがなくて満ち足りた状態。」とありました。これを参考にしながら幸福の概念を理解していくことにしましょう。
 まず、辞書の文章を読むかぎりでは、お金は幸福にはなりえないことがわかります。なぜなら、幸福は「これ以上望むことのない」となっているからです。つまり、幸福はマックス、最大値の状態なわけです。これに対し、お金というものは上限はありません。望めば望むほど無限に大きくなりえる値です。故に、最大の状態のないお金は幸福にはなりえないということになります。当然お金で買えるものもすべて同じです。お金で買った物はすぐにいらなくなります。新しくてよりすばらしいものが欲しくなります。幸せというものはいらなくなることはなく、新しいとか古いとかいう概念はありえません。
 「幸せとは、幸福とは何か」ここまで、この命題について考えてきたわけですが、幸福とはつまり不幸を脱したいという欲求の達成された形なのではないでしょうか。普通、人間の状態はたいてい不幸です。ある任意の時間に幸福感を味わっている人はそうたくさんはいないものです。山のような心配事や海のように深い苦痛に囲まれ、何かを望んで生きています。幸福を求めているという不幸の状態で生きています。そこから脱して、幸福を手にいれた時の満足感が幸福なわけです。と、これが私の達した結論です。初めに参考にした辞書の記述は一応満足できているように思えます。遠い昔から多くの人々がこの命題について悩み、考え、真の答えを捜し求めてきました。そのつかのまの答えは千差万別で、なにが真実なのか結局わからずにいます。人間はハイパーテクノロジーを駆使して生物や科学の分野を次々に解明してきましたが、当の本人の人間のことはほとんどわかっていないのです。広大な宇宙の意思からいえば、これほど無知で愚かなことはないのでしょう。それでも、今日ではカオス理論やラプラス方程式などを通してそれを少しずつ解明しつつあるようですが。この先何年かして人間の精神の仕組みが解明されたとき、幸福についての本当の答えも見つかることでしょう。その答えは人間の中にあるものなのですから。自分自身の中に必ずあるものなのですから。結局、自分のことなのですから。かの映画の主人公はそれをしっていたかどうかはわかりませんが、その言葉に偽りはないはずです。
 「デュナンはさ、幸せって何だと思う?」「私よ、私の事。」

 

 
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