高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校教育方法改善プロジェクト
1994/03/24発行

   


  
こんな授業を待っていた

   
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U 一般科目は魅力がいっぱい

 

 ●(295〜302P)

  二十一世紀の扉を開くこれからの教育   浅黄谷 剛寛
                          
  長野工業高等専門学校校長

   はじめに
 
   

  教育はいつの時代にも一国の繁栄を支える重要な鍵を握っている。他の産業ならばやり直しが可能であったり、外から充足も可能である。しかし、こと教育においてはやり直しは許されないばかりか、外からの代替も難しく、かつ無駄である。中国が文化大革命によって教育に10年の空白ができ、今日もなおその後遺症に悩んでいることから、実証済みである。したがって一国の教育には国の将来を見極めた慎重な教育行政が必要である。
 すでに戦後生まれの人たちが過半数になった今、21世紀の社会はかれらが築かなければならない。特に、平和で飽食の時代に育ったかれらは、やや「耐性」に欠ける面があるといわれる。しかし、これからの教育はこうした人たちに託さなければならない。そして、現在教育を受けている人・これから教育を受ける人を介して、21世紀の社会が築かれることになるわけである。それだけに、これからの教育は非常に重要である。

 

   戦後教育のはじまり
     第二次大戦後、GHQの主導でわが国の国家主義的・軍国主義的教育は壊滅した。昭和22年3月には教育基本法、学校教育法が制定され、この法に基づいて学校制度の改革が実施され、六・三・三・四制の単線型の学校制度が成立した。また、米国教育使節団の勧告によって、22年3月に「学習指導要領」がつくられた。この時「社会科」が誕生し、それまでの暗記中心の学習にかわって、「問題解決学習」の手法が取り入れられた。その後、35年の国民所得倍増計画の策定をめぐって、技術者養成の要望が強くなり、学校教育法を改正して、37年度から高等専門学校が発足した。その卒業者には四年制大学への編入の道も開いた。
 この半世紀の間に多くの問題が噴出した。世界的にはソ連の崩壊、資源・エネルギ−問題、環境問題、人口問題、人種・民族問題、経済格差等である。加えて国内的には高齢化社会、労働問題、国際社会関係等、今後解決が迫られるものが数多くある。学習指導要領はこういった社会を背景として、今日まで六回の改訂がなされた。

 新学習指導要領は、前記のような社会情勢に対応して、二十一世紀を生きる人間および生涯学習を意識して作成されたものである。その基本方針は、「心豊かな人間の育成」、「基礎・基本の重視と個性を生かす教育の充実」、「自己教育力の育成」、「文化と伝統の尊重と国際理解の推進」の四つである。これらは次世代の人間にとって必要な資質であり、それを授けるのが教育の使命である。この学習指導要領は直接的には高専には関係しない。

 

 生涯学習の基礎
 現在、世界一の長寿国日本では、学校を終えてから生きる年月が、それまで生活してきた期間のおよそ三倍である。学校にいる間はいわばモラトリアム人間として特段の責任をとることもない。しかし、ひとたび社会にでれば、職業生活、社会生活、家庭生活等々、各人は行動すべてに責任を負わなければならない立場になる。そういった身辺を処理する上で、各人がそれまでの学習では不十分だということに気が付くはずである。勉強は学校においてだけでなく、一生続けなければならない。未学習の隙間を埋められる力を与え、自ら学ぶ意欲と意志をもたせるような教育がこれから望まれる。勉強することが楽しい、勉強がしたくてたまらないという人間を作ることである。また、ある命題にぶつかった時に、それに対処できる力を与えられなければならないのである。社会がこれだけ進化すると、本来「勉強」しなければ会得できない「パソコン」も、勉強でなく遊びの感覚で習得することも可能になってくる。こういった身辺の事象に的確に対応して勉強できる「力」や 「習慣」が今後必要になってくる。
 平成4年末以来、学力テストおよび偏差値重視の教育が問題となってきている。大型コンピュータが普及して以来、業者によるテストの広範な集計が容易になった。この結果を利用して、学校のランク、個人のランク付けがおこなわれ、生徒の偏差値による輪切りが可能となった。中学生はテストの偏差値によって、進学先が生徒個人の意志を無視して、「行きたい学校」ではなく「はいれる学校」へきめられている。本来テストは教師自身が教えたことが、どれくらい定着しているかを計る尺度で、テスト問題は教師自身が作成しなければならない。中学校教師の役割のひとつは、生徒が将来自活できるような進路指導である。高校へ、あるいは高専へ入学させることが最大の目標ではない。生徒が、「自分は将来どうして生きていくか」「どんな職業に適しているか」ということを見極められるようにすることである。これこそ生涯学習に最も重要な問題である。
 今日、95%以上が高校進学する時代であっても、進学しなかった事がマイナスに作用しない人間を育成しなければいけない。なぜ進学したがるのか、なぜ進学させたがるのかを改めて考える必要があり、高校・高専・大学いずれも「勉強の場」であることを認識すべきである。その上で進学かあるいは別の道を選ぶかを決定すべきである。教師や親が行かせたい学校ではなく、本人が行きたい学校を最優先にすべきで、不合格も覚悟で望むべきである。そうすることによって、はじめて生気あふれる人間が育成される。さもなければ、進学自体も他人のせいにするような無責任な人間の再生産につながる。高校中退者増加の一因はそこにある。中学からの主な受験対象は、高校、高専である。高校は従来、普通科と職業科の二つであったが生徒の多様化に合わせ、総合科も新設され、進路の選択肢も広くなりつつある。また、単位制高校も設立され、ここでは授業時間・科目とも自由な選択が可能である。その他、各県には専修学校もあり、「高校」だけが進学対象という認識も改める必要がある。個人的には就職しながら学ぶことが適した者もいるはずである。
 人間が生きていく上で、義務教育段階の学習で十分である。先にも記したように、中学校を終えた後も中学校段階での学習成果を軸として、社会のそれぞれの場で自由に、自分で学習していくことが大切である。

 環境教育の必要性
 今日ほど地球環境問題が脚光を浴びている時代はない。経済成長・人口増加に伴い、資源・エネルギ−の消費が加速度的に増大している。その結果、温暖化現象、オゾン層破壊、酸性雨、森林破壊、砂漠化等多くの問題が発生している。こういった問題に対処しながら生きていかねばならない。そのために、個人的には環境負荷をできるだけ少なくするような生活の仕方、商品の選択、リサイクル実践活動など環境保全に配慮した生活様式や環境モラルに対する合意形成が求められている。他方、一国、あるいは国際的には、開発にあたって、環境負荷を出来るだけ少なくし、省エネ型の合意が必要である。そのためには、豊かな自然の価値を認識し、生態系の摂理を学び、環境に対する理解を深め、人間の倫理的な行動に期待しなければならない。従って、環境教育は環境政策の重要な施策となり、世間の期待も大きいわけである。
 環境教育は特定の科目でおこなうのではなく、あらゆる教科・科目でいつでもどこでもおこなわなければならない。そのため文部省は「環境教育指導資料」を作成して環境教育の充実に努めているところである。環境問題に「関心」をもち、「責任」を感じ、解決の「能力」を養い、保全に積極的に「参加」する態度を身につけなければいけない。もっとも肝心なことは、「参加」である。「参加」は学校だけの事ではない。家庭でもしかりで、また、一生持続していかねばならない生涯学習の一環でもある。
 わが国の教育は、昭和20年代を除いて、おしなべて暗記中心・知識中心であった。「学力」イコ−ル[知識]というとらえ方であった。先に記した偏差値教育も知識偏重からきたものである。多くの物事を知っていることがその人間の学力を示すものではない。新しい学力観は、変化への主体的対応能力である。今後必要なことは、社会の変化に対応し、個々の知識をいかに引き出し、社会に還元させるかということにある。すなわち「応用」であり「知恵」であり、これこそ「参加」である。環境破壊が「良い」「悪い」の判断はだれにでもつく、しかし、それを「やる」か「やらない」かは個々の判断にゆだねられる。身近なところでの「参加」はもちろんであるが、社会に対しても、会社で企画する場合にも、常に将来どのようになるかを見越して行動すべきである。高専・大学で学んだ知識をもって将来「物」や「施設」を作る場合、それが今後、環境破壊につながらないかを十分考えてやるべきである。環境破壊につながるような企画はしないというのは、個人の倫理観に期待するしかないのであって、ここに、教育の限界がある。

 環境教育の必要性
 国際社会と一時も離れて存在できないのが、今日の日本である。世界有数の貿易国であり、年間千万人もの人が海外へ出かける時代である。そんななかで、大事なことは、自国の文化と伝統を理解し尊重する態度を養うことである。それによって、はじめて外国のそれを理解・尊重できる態度が養われるわけである。文化とは人間が社会の成員として獲得した能力・習性の複合であり、知識、信仰、芸術、道徳、法律、習慣などである。そこから国民性、民俗性、などの固有の特殊性が生まれてくる。わが国においても、各地で様々な文化・伝統が現在まで続いていることは、それなりの理由があるはずである。それらを学習して、世界の諸地域と比較しながら、世界各地の特徴を理解し、共通性・類似性・異質な点が把握でき、尊重する態度が生まれてくるわけである。そうなれば、海外へ出かけて、相手国の自然環境を破壊したり、文化に傷をつけたり、という非難をあびることも無くなるであろう。若い世代に、じかに外国に接することも必要であり、今後、修学旅行は海外 に出かけるのも国際理解の一助になろう。

 

 おわりに
 いずれにせよ、これからの日本人は、「心のやさしい」人でなければならない。そのやさしさは、世界の人々に、環境に、文化に、あらゆるものに対してでなければいけない。日本人は、もともと風情を愛し、礼儀正しい、心やさしい民族であったはずである。その民族が世界の嫌われ者になったのは、心の問題であろうか。一般に、個人は道徳的になれるが、国家は非道徳的になりうるといわれる。個人の心がそのまま国家の意志につながるような人間が21世紀に望まれるわけである。心の教育と知恵の教育こそ今求められている世界を救う教育である。

 

 
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