高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校教育方法改善プロジェクト
1994/03/24発行

   


  
こんな授業を待っていた

   
menu
 

T人文・社会・外国語系の授業がいまおもしろい
  5. 解説最新情報

 

 ●神話の源流(227〜237P)

   富士と浅間の女神           工藤圭章   沼津工業高等専門学校校長

   
   

  晴れた日には、沼津高専の北の空に麗峰富士が全容を現す。稜線で空の青さをはっきり識別す5年間、学業生活を富士を仰ぎ富士に暮れて送る沼津高専生にとって、富士はあまりにも身近くあるがゆえに、かえってまた、富士をよく知らないきらいがある。
 福澤諭吉は『学問のすすめ』を明治5年(1872)に刊行している。それにあやかって「雑学のすすめ」を学生に提唱したい。それとともに、好奇心を強くして広く雑学に取り組むことの必要性を喚起することとしたい。その手掛かりとして、身近な富士山を違った切り口から取りかかることにした。富士は静岡県にとって代表的な山であるだけでなく、日本にとっても代表的な山だからである。また、富士は国際的にも通じる山でもある。この山を題材として歴史民俗的に考えてみたらどうだろうかと思って、国際教養総合化のテーマの一つに取り上げてみた。
 ところで、国際人として世界で活躍するに当たって、流暢ならずとも外国語を話せるに越したことはない。それとともに、母国である日本のことについても話題に挙げることのできる何かを持ってほしい。世界に飛躍するためにも、国際化時代に対応するには自国のことを良く知っておくことが必要である。インターナショナリズムとは自国を核として世界を考えることであり、いうならば、日本国籍を持って日本人として国際的に活躍できる人が、われわれの望む国際人なのである。国籍を持たずに世界を考えるのはコスモポリタニズムで、インターナショナリズムとは程遠いといえよう。
 最近、文化科学という言葉が使われている。この言葉はたぶん人文科学と社会科学を総合したものと理解される。富士を文化科学的に考えることによって、自国の身近なものにもいろいろの見方を求めて国際理解のために枝を広げることに気づいてほしいと思わずにいられない。

 

   火山としての富士
   

  近年巷間の話題の一つに、東海大地震とか、東京湾直下形地震とか、大地震の近いことが挙げられている。また一方では、とくに根拠があるわけではないが富士山の再噴火の危険性も囁かれている。富士の宝永4年(1707)の噴火以来300年ほどたち、休火山の再噴火には十分の期間が経過していることや、この宝永4年にマグニチュード8.4の大地震が併発したことなどが、最近の伊豆の群発地震をその予告と感じたせいか、噂が噂を呼び語られているようである。
 富士の火山活動についての記録として、古代には『続日本紀』に天応元年(781)7月の地震が記されているし、また、『三代実録』にも貞観6年(864)の地震の記事が見られる。とくに貞観の地震では「甲斐国八代郡の本・ の両湖に噴火の熔岩流が流れこみ、湖水が湯のようになったし、火焔が河口湖にも向かった」と記されている。この時の噴火で、いま見るように西湖と精進湖に分かれたという。この間の富士の噴火としては延暦19年(800)と延暦21年(802)の噴火についての『日本紀略』の記事があり、後者の時には「富士の焼砕石が相模国足柄路を塞いだため、これを廃止し筥荷ー箱根ー道を開く」とある。『日本紀略』にはこのほか承平7年(937)、長元5年(1032)の噴火が記載されているし、また、『扶桑略記』には永保3年(1083)にも噴火があったことが記されている。
 このほか、記録に残されていない富士の噴火もあったろう。わが国の古代の正史である六国史ですら、すべていまに伝えられていない。たとえば、本来は『日本後記』に記載されているはずの富士の噴火が、『日本後記』が四〇巻のうちわずか一〇巻しか残っていないために、前にふれたように『日本記略』に引用されている逸文からこの時期の噴火が知られるのである。ほかにも『類聚国史』などがあって、すべてではないがどうにか六国史の欠失分を補うことができるのは幸いである。六国史の中では初めの『日本書紀』『続日本記』と最後の『三代実録』には読み下したものがあるが、他の『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』にはない。興味があったら図書館にいって読み下しを試みるのも面白いだろう。それも好奇心を満たすことになるかもしれない。ともあれ、古代の人びとにとって富士は美しい山であるとともに、火を吐く恐ろしい山だったのである。

 

   浅間の女神
   

  古代の人びとは空が晴れたり曇ったり、あるいは風が吹いたり雨が降ったりする自然現象を、ひとしく神のなせるわざと考えたことであろう。そして、大雨や洪水、台風や地震などの天変地異には神の怒りを感じたに違いない。そして、神は目に見えないけれど美しい山や樹木などの地形地物をその依代としてそこに宿ったと信じていた。ところで、富士山を依代としていた神として崇敬されたのは浅間の神である木花咲耶姫命であった。木花咲耶姫命(以下コノハナサクヤヒメという。)は山をつかさどる神のオオヤマツミノカミの娘である。木花(さくら)が咲いたように美しいと形容されるこの女神は、木花開耶姫命・木花佐久夜毘売命または木花開耶比命とも記され、神吾田鹿葦津姫命・神阿多都比売命の別名もある。名にいろいろの表記がみられるのは、伝承の名を漢字で表したためであって、神話として語り継がれてきたことの証拠でもある。
 それでは次に、コノハナサクヤヒメが富士の女神とみなされた背景を考えてみよう。
 天孫降臨から天孫三代についてのわが国の神話は、天照大神の孫のアマツヒコホノニニギノミコト(以下ニニギという。)に始まり、アマツヒタカヒコホホデミノミコト(以下ヒコホホデミという。)・ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(以下ウガヤフキアエズという。)とつづく。そしてこの次代が神武天皇ことカムヤマトイワレヒコノミコトである。
 さて、『古事記』や『日本書紀』に記されるニニギの神話では、ニニギが日向の高千穂峰に降臨し笠紗岬で美女に会う。この美女がコノハナサクヤヒメである。ニニギは父のオオヤマツミに彼女との結婚を乞うたところ、オオヤマツミはこれを許し、姉のイワナガヒメとともにニニギのもとに遣わしたのである。しかし、ニニギはイワナガヒメが醜かったため、父神のもとに帰しててしまうのである。オオヤマツミがイワナガとコノハナサクヤを遣わしたのは、ニニギの寿命が石のように長く、さくらの花の栄えるようにと祈って遣わしたのであった。しかしニニギはそれを知らず、また、イワナガヒメは帰されたことを恨み恥じて、「人の生命はさくらの花のようにもろく儚い。」と嘆き、人の死を示唆したのである。この神話は人の死の避けがたいことの譬として知られている。
 一方、ニニギに嫁いだコノハナサクヤヒメは一夜にして懐妊したために、自分の子ではないのではないかとニニギに疑われる。そこでコノハナサクヤヒメは「他人の子なら幸せに出産することがないはずだ」とニニギに告げ、それを実証するために出入口を土で塗り塞いだ産室に火をつけて、火勢の強い中でホデリノミコト・ホノスソリ(ホスセリ)ノミコト・ホオリノミコトの三子を竹の小刀でへその緒を切って分娩し、子の無事なことをもって疑いを晴らしたのであった。『日本書紀』には三子の名に差異があるがこの出産神話が六説も併記されている。これは伝承経路の違いからと思われるが広く伝承されていたことを示している。三子の名のホは火を意味している。これらの神話に語られるコノハナサクヤノヒメは、美しさと火の荒々しさを兼ね備えており、まさに美しい火山の富士に相応しい神と古代の人びとが信じたことは想像に難くない。

 

   神話の世界
   

  科学的世界に神話は入り込めないのであろうか。現実的なものに対して神話は荒唐無稽なものとしか位置づけられるものではない。叙事とは異なるがその伝承されたものは先史時代の人びとの夢であり望みであったと受容できよう。非科学性をうんぬんするのではなく、先史時代の人びとの想像による創造、奇跡への願望を神話は秘めているのである。天孫降臨の神話は朝鮮の歴史書『三国遺事』に記される檀君神話に類似することが指摘されている。降臨場所が高千穂峰でなく太白山頂上の檀樹であり、このような降臨伝承は北アジア民族系の説話に多くあるという。それに対して人間の死を示唆した神話は東南アジア民族系の説話といわれている。これらの神話の起源と民族を勘案すると、日本人の由来を解きあかす手がかりが秘められていると、多くの民俗学者が論述している。
 ニニギとコノハナサクヤヒメの子のうち、ホオリノミコトはヒコホホデミの別名である。『古事記』ではホデリノミコトとホオリノミコトの兄弟、『日本書紀』ではホノスソリノミコトとホオリノミコトの兄弟が「海幸山幸神話」の主人公に挙げられている。この神話は兄の釣り針を魚にとられた山幸ことヒコホホデミが、釣り針を求めて海神ワタツミノカミの宮殿に至るという物語である。ヒコホホデミは海神の娘トヨタマヒメノミコトと結婚し、やがて兄のもとに帰るが、兄に争いをしかけられて戦ったが、海神から贈られた塩盈珠・塩乾珠で兄をこらしめ勝利を収めたという。以後兄は弟に子々孫々に至るまで永く従うことを誓っている。この「海幸山幸神話」も類形の説話がインドネシアなどの東南アジアに残されているようであり、わが国では隼人の祖先伝説に関連するものと考察され、一部の南方民族の日本への渡来が類推されている。
 「海幸山幸神話」に続くヒコホホデミとトヨタマヒメノミコトの神話は、非人間の母からの王子誕生の物語である。トヨタマヒメは出産の時に海辺の波際に鵜の鳥の羽を屋根の茅がわりに葺いた産室を建てる。しかし、屋根が葺き終わらないうちに彼女は海神の娘本来の大鰐の姿を現わして出産したので、ヒコホホデミにその姿を覗き見されることになる。ヒメはそれを恥じて妹タマヨリヒメにこの子を託して父の海神のもとに帰るのである。この子は産まれた時の産室の状況からウガヤフキアエズと名づけられたという。非人間の妻の出産に関する秘話は洋の東西を問わず偉人・英雄誕生の説話として述べらている。日本の神話も一つのロマンとして理解できよう。富士にまつわる浅間の神周辺の神話も、その起源はアジアの北から南に及び味わい深い。

 

 語られた富士の噴火

  不尽能高嶺者、天雲毛、伊去波伐加利、飛鳥母、翔毛不上、燎火乎、雪以滅、落雪乎、火用消通都。(ふじのたかねは、あまぐもも、いゆきはばかり、とぶとりも、とびものぼらず、もゆるひを、ゆきもてけち、ふるゆきを、ひもちけちつつ)。 この歌は『万葉集』にある富士の噴火の歌で、富士の高さと噴火のさまを驚きをもって詠んでいる。奈良薬師寺の僧景戒が平安時代初期に著した『日本霊異記』の中にみられる説話の一つに、役行者が伊豆の島に配流されたが、昼は伊豆の島で夜は飛行し駿河の富士に登って行をしたことがみえる。このように、富士を記した作品は古くから数かずみられ、その中には富士の火山活動を記すものもある。
 平安初期の作品と知られる有名な『竹取物語』には、天にもっとも近い山が駿河国にあって、その頂上でかぐや姫の遺した手紙や不死の薬の壺を燃やしたことが語られている。この山にこれらを燃やすため、あまたのつわものが登ったことから、あまたを豊富の富に、つわものを士におきかえ、不死の薬に因んでこの山をふじの山と名づけたと洒落ている。そしてこの時の燃やした煙がいまだ雲のなかへ立ち上っているといい伝え、末尾を結んでいる。『竹取物語』は創作であるために富士の噴煙を軽妙に扱っている。それに対して、富士を実際に見た記録風のものとしては、上総より京に上った菅原孝標の娘の治安元年(1021)の道中記である『更級日記』がある。これには富士について「山のいただきの、すこしたひらぎたるより、けぶりは立ちのぼる、ゆふぐれは火のもえたつもみゆ、」と述べられている。いずれにせよ、富士の噴煙は当時の人びとにとってきわめて印象に残る風物として理解されていたと思われる。
 道中記にはこの他にまた『十六夜日記』もある。これは建治三年(1277)に藤原為家の後妻、阿仏尼が鎌倉に向かった時の記録で、これには「富士の山を見れば、煙もたたず、むかし父の朝臣にさそはれて、いかになるみの浦なればなどよみしころ、とおつあふみの国まではみしかば、富士のけぶりのすえも、あさゆふたしかにみえしものを、いつの年よりかたえしととへば、さだかにこたふる人だになし、たが方になびきはててか富士のねの煙の末のみえずなるらん、」とある。かって、遠江国でも見えた富士の噴煙は、これによると鎌倉時代のこの建治の頃にはもうおさまっていたことが分かる。『太平記』によれば鎌倉時代の末期の元弘三年(1333)に富士がまた噴火したという。とすれば、およそ半世紀ほど富士は静穏だったのであろうか。この頃には富士信仰が盛んになり富士登山による参詣もおこなわれている。なお、中世の富士信仰を示すものとして富士と浅間神社と参詣者を象徴的に描く「富士曼荼羅」が有名である。

 

 富士と浅間神社
  コノハナサクヤヒメを祀る神社は富士を遙拝できる各地に建立され、それぞれ浅間神社の名がある。神社によって浅間はアサマあるいはセンゲンと読まれる。富士山本宮浅間神社の名で知られる富士宮市の浅間神社の社伝では、コノハナサクヤヒメを祀ったのは垂仁天皇のころからで、もとは社殿がなく富士を神の依代、すなわち御神体として拝したのである。現在地に社殿が造営されたのは九世紀の大同年間(806−811)とする。富士吉田市の北口本宮富士浅間神社の社殿も現在地に造営されたのは貞観年間(859−877)と伝え、もともとともに本殿のない神社であった。由緒の古い神社にはいまも本殿のない神社が多い。奈良・大神神社、長野・諏訪大社、埼玉・金鑚神社などがそれである。 神の依代を崇拝する神社ではそれが御神体であり、それが本殿そのものであった。一方、祖先の遺品を霊代として祀る神社では、霊代を収める宝庫が本殿に変質していったと考えられる。そして、依代から始まった神社でも、やがて霊代を祀る神社と同じように、神霊を奉安する本殿が建立されるようになるのである。
 浅間神社では富士山にあやかり異様な高い社殿が建立されているものがある。富士山本宮浅間神社の慶長九年(1604)建立の現在の本殿は、富士の高さを誇示するかのように二階建てに造られ、上層には流造の本殿が建てられる。一方、延喜元年(901)に創建された新宮の静岡浅間は、もとある神社に浅間の神を新宮として合祀したために、正式には神部神社浅間神社大歳御祖神社と呼ばれている。現在の社殿は文化7年(1810)再建の拝殿、同十年再建の本殿から成るが、社地の背後の賎機山の中腹に富士に倣って高い位置に建てられた本殿に向かいあうように拝殿が二階建てに造られている。本宮・新宮両社ともこれら二階建ての建物が特異な浅間造の名で呼ばれている。これらは浅間神社ならではの、まさに富士を意識した特異な社殿形式といえる。
 富士山に関連して神話、噴火の文学、そして浅間神社と、科学的な見かたと違っていろいろの切り口から取りかかってみた。富士山の話題もきわめて豊富である。富士だけではない。なにごとも好奇心をもってみれば、いろいろの取りかかりが浮かんでくるはずである。

 

 
    UP ↑
    menu