高専実践事例集
工藤圭章編
高等専門学校教育方法改善プロジェクト
1994/03/24発行

   


  
こんな授業を待っていた

   
menu
 

T人文・社会・外国語系の授業がいまおもしろい
  2. おもしろ授業戦略

 

 ●「防災の日」の歴史授業(135〜144P)

   留学生に助けられた母の話       田代文雄   沼津工業高等専門学校教授

     
   

  9月1日の「防災の日」が70年前(1923年)の関東大震災に由来することは、学生の多くが知っている。しかし、震災の実態については殆ど知識がなく、大震災は現代の学生にとって奈良時代の歴史と同じく、教科書の中の年代暗記の対象となる1事項にすぎない。この事実を知り、翌日の歴史(西洋史)の講義で急遽行った雑談の概要が後掲の文章である。

 「防災の日」を単なる「避難訓練の日」に終わらせず、この機会を利用して、大震災の現代に生きている意味を、さまざまな学問の領域からトータルに照明を与えるのも、総合化の一例になりうると考えたからである。例えば、地理学では大震災における地震発生の科学的メカニズムを、物理や工学では震動の原理、伝播や耐震構造などを、歴史ではパニックの中で生じた流言による朝鮮人・中国人虐殺の事実とその史的背景を考えるといったように。

 本稿は、雑談ながら、そうしたことを念頭において試みた歴史からのアプローチ例である。具体的には次のような手順に従った。
1. まず学生の関心をそそるために大正12 年9月2日付の新聞紙面を提示し、生々しい報道記事を紹介、とくに本校所在地の沼津市周辺の被災記事により、大震災を学生の手許に引き寄せる。学生は身近な川や橋などの具体的・個別的名称に触れるほど興味を示す。
2. 教科書では、例えば、〈大混乱のさなか、「朝鮮人暴動」の流言がひろまり、これに不安を感じた群衆や一部の警察官の手で多数の朝鮮人が殺されるという事件もおこった〉と簡潔に記述されるが、学生の多くは自分とは別世界の出来事とみているため、視野に入っていない。具体的イメージを結ばせるため、講義の大半を筆者が母親から聞きとった体験談に割いた。
3. このような事例を基に、なぜ虐殺がおこりえたのかを考える。パニックと流言の関連は集団心理学や情報論からも分析される必要があるが、歴史に限っていえば、流言発生とその受容を容易ならしめた史的背景をさぐる。 4. 最後に、日韓関係・日中関係を含め、わずかだが世界の同時代史的視点を念頭において、こまぎれではないトータルな時代認識への緒となるよう試みた。

   

 

当時の新聞記事

 
 沼津も被災。横浜では少年が虐殺を見た
   

  ここに1枚の新聞があります。ちょうど70年前の今日、関東大震災を報じた大阪朝日新聞の第1面です。見ての通り、東京・横浜・小田原などの惨状のほか、意外にも本校(沼津高専)の近くを流れる黄瀬川の鉄橋橋台がずれたこと、御殿場付近の列車中で地震にあった乗客の恐怖の体験談、沼津市の被害などがかなり詳しく報じられています。ちなみに丹那トンネルはまだ工事中で、東海道線は現在の御殿場線経由であり、本校への通学駅下土狩が当時の三島駅でした。したがって、生の地震情報はこの三島経由の列車で大阪にもたらされたため、このような扱いになったのでしょう。

 こうして、改めて当時の紙面を見ると、新聞の生々しい記事はすぐれた歴史資料だということが分かります。ただし、誤報もあるし、昔は検閲などによる報道規制がなされる場合もあり、新聞資料をどう読みとるか、歴史を見る厳しい眼が要求されるでしょう。

 ここに、もう1つ、2日前の朝日新間記事があります(1993年8月31日付)。見出しは「大震災の日、少年は虐殺を見た」。横浜の石橋さんという老人が小学校2年生のとき震災にあい、9月3日、火に追われて家族とともに根岸方面へ逃げる途中、電柱に荒縄で縛られた朝鮮人の死体を見た。その光景は今も眼にやきつき、それから51年後の1974年に朝鮮人慰霊碑を自費で建立、毎年震災の日に供養するという内容です。地震直後、朝鮮人暴動の流言がとびかい、不安に脅えた民間の自警団や一部の警官によって多数の朝鮮人や中国人が虐穀された事件の、1つの目撃証言です。しかし、なぜそのような根拠のない情報が発生し、またそれを疑うこともなく受け容れて虐殺にまで走ったのでしょうか。今からみれば信じがたいことですが、もう少し詳しく当時の話を紹介してみましょう。

 

   流言は松林の中から始まった
   

  私は9月1日になると、よく母から大震災の体験談を聞かされたものです。1912年(大正元年)生まれの老母は、小学5年生のときに東京の代々木で経験しました。その日は、夏休み明けの始業式の日で、しかも転校初日だったため兄が付きそい、やっと学校から帰宅して昼食というときに地震が襲ったのです。公式記録では午前11時58分。母は玄関へとびだす途中で失神し、自分の名を呼ぶ声に気づくとつぶれた家の梁に首をはさまれ、暗い中で身動きできない状態でした。やがて前方に微かな光が射しこみ、柱を1つ1つ取り除いて1人の青年がもぐりこんでき、母たちを救出してくれたのです。隣家に住む崔さんでした。

 崔さんは、早大に学ぶ留学生で、同居の友人たちが夏休みで帰郷、彼だけが残っていたそうです母国では地震はないとかで仰天し、2階から逃げようとして放りだされ、目の前に母のつぶれた家をみて驚き、懸命に救出してくれたのです。母の兄は当時青山師範(現東京学芸大)の学生で、たまたま掌生同士のよしみで崔さんとあいさつをかわす程度の間柄でした。怪我をした身体に着のみ着のままの姿で、近くの代々木練兵場脇の野原に崔さんともども避難、そこには多数の被災者が迫りくる夜の闇と余震に不安をつのらせて打ちふるえていました。そのさなか、離れた松林の中から叫ぶ声が夕闇を切り裂いたのです。「渋谷のほうから朝鮮人暴徒が押しかけてくるぞ!」。叫び声は何回も繰り返されました。人々はたちまちパニックになり、誰が指示したか分からないが、あちこちに自警団が結成され、われ先に竹槍を作りました。崔さんは「絶対そんなことはない。もし本当ならばぼくが身体を張って阻止する」と、涙ながらに母たちに訴えたそうです。

 そのあと、何とか食糧を確保しようということで、兄と崔さんは2停留所ほど先に住む義兄の家へ向かいました。当時、義兄はある要人の家の警固詰め巡査で、屋敷の一角に住んでいました。ところが出発した2人は途中で自警団に囲まれ、興奮した人々が崔さんに竹槍を突きつけ、兄が必死に「この人は悪い人ではない、私たちを救出してくれた命の恩人だ」とかばい、「嘘だと思うなら、いまたずねていく巡査が保証するからついて来てくれ」と懇願したそうです。それでも途中、何度も人々は崔さんを縛って袋叩きにするのを、そのたびになだめて、やっと運よく義兄に会え、何とか解放されたのでした。兄たちは崔さんを秘かに逃がしましたが、以来、その消息はとだえてしまったそうです。

 

   消息をたった朝鮮の人たち
   

  母たちは代々木の原に野宿を続けたのですが、兄も心労で倒れ、これまた朴さんという人が見かねて自分の家に母たちを住まわせてくれました。朴さんは代々木の高台にあった屬(キツカ)さんという名士の豪邸でお嬢さんのピアノ教師をしていた音楽学校の学生で、屬家の保護があったため安全だったのです。だから彼の家には物理学校(現東京理大)留学中の苦学生のベンさんや、慶大に留学していた名家の李さんたちも逃げこんできて、母たちと暮らしました。李さんの実家は裕福だったので、送ってきた肉の味噌漬けなどがかなりあり、おかげで飢えをしのげました。しかし、ここにも近所の自警団や警官がつきまとい危倹になってきたため3人の学生は帰国を決意、秘かにこの家を去って行きました。その後、母たちはこの家を引きついで1年ほど住んだのですが、3人の消息も以後2度とつかめず、故国へたどりついたのか、その前に命を落としたのか、今もって不明です。

 専門家の研究によれば、震災直後に日本全国の警察など諸官庁に収容された在日朝鮮人の総数は23715人、うち東京が11907人、静両県は369人(内務省警保局の資料に基づいて松尾尊~氏が作成。「思想」1963年9月号所収)。関東一円で数千人が殺されたといわれ(前掲朝日新聞、立大教授山田昭次氏)、さらに中国人も神奈川県など東京近郊を令め758人が犠牲になったことが判明しています(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』)。

 

   恐ろしいパニック時の噂
   

  1930年代にアメリカで俳優オーソン・ウェルズがSF作品『火星人襲来』をラジオ放送したとき、未確認物体襲来の臨時ニュース部分が、ドラマであるとの断りにもかかわらず、聴取者が本物と勘ちがいし、あわてて街から逃げだす人々、ショック死する人などが続出した事件は、有名な話です。1973年の第1次オイルショックの際、トイレットペーパーが手に入らなくなるという噂がとびかい、主婦たちが店に殺到、スーパーが整理券を出して1人の買う数を制限したり、東京では車で何軒もかけめぐって、何十ロールと買い占める人が続出したこともあります。君たちは笑うけれど、マスメディアの発達した今日でも、パニック時の噂が集団心理に働きかけると、信じがたい事態が生じる1例です。

 それどころか、マスメディアが噂を増幅することもあり、事実、大震災のときは当初、1部の新聞が朝鮮人暴動を噂話として報じたともいわれます。また、関東地域を非常事態として行政管理する軍の戒厳司令部が、当初、事実誤認したともいわれ、警察・地方行政を統括する内務省が全国の地方長官に自警団の組織をうながし、朝鮮人の行動に対して厳密なる取締りを通達したことが騷ぎを大きくしたようです。ただ私の母は、消えた朝鮮人留学生のことを思って悲しむと同時に、必ずこういうのです。「あの代々木の原で松林の中から叫んだ、姿を見せない人物は、いったい何者だったのかねェ、おまえ」と。

 

   不幸な時代への第1歩
   

  そもそも関東大震災が生じたころは、どんな時代だったのでしょうか。そう、第1次大戦が終わって5年目です。世界的にいえぱ、前の年にイタリアのムッソリー二がローマ進軍のすえ政権を獲得し、震災の年にはドイツでヒトラーがヴェルサイユ条約の破棄、反ユダヤ主義、反共産主義、ドイツ民族至上主義を掲げてミュンヘンー揆をおこしています。アジアでは日本の東アジア進出(1910年の韓国併合、1915年の対華21カ条要求など)を抑制する英米主導のワシントン体制が成立、日本の軍部の反発が強まりだしたときです。

 日本の資本主義が確立したのは第1次大戦期で、この頃から安い労働力として在日朝鮮人の数が急増、1915年にはわずか4000人弱であったのが大戦末の1918年には22000人をこえ、震災の年には80000人をこす(林光K「在日朝鮮人問題」東京法令出版『日本史資料』上巻所収)。企業は日本人労働者の賃金抑制に安い賃金の朝鮮人労働者を利用したこともあり、在日朝鮮人の急増は日本人労働者の反発を生みだしています。他方、1919年にはソウルに始まった反日・独立万歳デモ(3・1運動)が全朝鮮に波及、総督府による武力鎮圧が行われ、中国でもアジア諸民族の自決を無視して、日本の21カ条要求に同意したヴェルサイユ体制に対する怒りの行動(5・4運動)が生じています。こうしたことから、日本人の中に朝鮮人・中国人蔑視の感情と同時に、その裏返しの、報復されるのではないかという潜在的不安が生まれ、震災というパニック時に「朝鮮人暴動」の流言を受け容れやすい下地となったのではないでしょうか。

 

   アナーキスト大杉栄も殺された
   

 大震災の混乱の中で殺された者に無政府主義の指導的理論家大杉栄もいます。9月16日、弟を見舞いに行った帰りに、妻伊藤野枝と甥の少年とともに甘粕憲兵大尉に連行され殺害されました。ついでながら、大杉栄の墓は近くの静岡市立沓谷霊園にあり、ソ連崩壊後の今では、ロシア革命後の1党独裁を批判したその先見性が見直されています。母はもちろん大杉虐穀の意味を知る年齢ではなく、兄だちが驚いて話していたことから子供心に覚えているだけです。ちなみに、「社会主義者が放火した」というデマも流れています。

 こうして大正デモクラシーの時代は震災とともに幕を閉じ、2年後、母も貧しいながら高等女学校に進学しました。主に社会主義者を取り締まり、言論・思想の自由を抑圧する治安維持法が成立したときです。そして震災時の犠牲にもかかわらず、日本の植民地政策(土地調査を強行して共有地や地主不明とされた土地を没収)で土地を失った貧しい朝鮮の農民は日本へ渡航しつづけ、在日朝鮮人の数は震災の翌年には12万人、1931年の満州事変以降は、毎年7〜8万人も増加していきます。やがて大杉事件の甘粕大尉は、日本が中国東北部を占拠してつくった傀儡国家満州国の高官の地位につき、ヨーロッパでは同じころヒトラーが政権を獲得しました。  9月1日になるたびに、老いた母が今も問いかける「松林の中の見えない人物」― それは本当は何だったのでしょうか。

 

 
    UP ↑
    menu