2002.01.11


(1)総合学習で育てる3つの『I』 大阪教育大学 森田英嗣

  「三つのI」というのは私が勝手に言っているもので、総合学習で育てる力を整理する枠組です。うまくできているのかどうかは、分かりません。ただ、最近3R’sにからめて、3C’sだとか、3E’sだとかを唱える人が出てきたので、私も考えてみたという程度の意味です。

Interest : 世界に心を開き興味や関心を持つ力

Inquiry : 問い、探求する力

Interaction : 人や物とかかわり合う力

という単語の頭文字です。 一番目は、無気力、無関心などといわれる子どもの状態に対して、二番目は与えられたものを取り込むことだけでなく、自分からつかみ取る学びの必要性から、 三番目は市民として社会や人に働きかけ、コミュニケーションをつくり、社会を変える力という観点から考えております。

そうした力を育てる実践とは具体的にどのようなものかにつきましては、簡単な原稿を書きましたので、出版されましたら、またお知らせいたします。

(2)「一人一人が責任を持って解決していく」

社会をつくる人間を育てる」 学校は、そもそも文字を教える施設として、つくられました。文字は、いうまでもな く、社会に参加するための手段です(江戸時代の手習い所=寺子屋でも実際に書かれた手紙や一揆の訴状などがお手本として使われたという記録があります。文字は社会を知る重要な手だてであったのです)。ただ、その参加する社会をどのようなものと イメージするかで、どのような文字の力を育てるかの中身が異なってきます。

例えば、参加する社会を産業社会、消費社会というように考えてみるならば、文字の力を科学 技術を教え、あるいは計算の仕方、借金の仕方を教えるという方向で具体化するでしょ う。しかし、参加する社会を市民社会というようにイメージするならば、それだけで なく批判的な思考の力、社会作りの力を育てなければなりません。(前者は、機能的 リテラシー観、後者は批判的リテラシー観といわれたりもします)。

私は、「総合的な学習の時間」というのは、後者の観点でつくられる必要があると考えております。なぜなら、このアプローチが日本の教育にもっとも欠けているからであり、またこのアプローチが私たちや子孫が幸せになるに必要な力を育てると考えるからです。上の3I’sも、実はこのような観点から考えてみたものです。

(3)勉強と研究(探求)

上記で「これまでの日本の教育は」というようなことを書きました。 まことにおおざっぱなのですが、それを一つの言葉で表現するとすると、「勉強」を 子どもにさせてきたということができます。ここで「勉強」とは、出来合いの知的体系(学問の大系など)を内化する学習です。このとき、学習者は先生からいわれたとおりの内容を、示された順序と方法で学んでいくことが求められます。

先生は時に上から圧力を加え、勉強を「させ」ます。勉強とは、強制することができます。もちろん、この学習は、今後も重要な学習の一種であり続けるでしょう。日本の子ども達の学力は大人がつくる「勉強はいいことだ」という風土の中で育ってきたもののように、私には思えます。 (子どもが勉強しなくなったと最近いわれますが、それは、大人が「勉強はいいこと だ」ということを口でも態度でも示さなくなったことの反映にすぎないのだと私は思 います。だからOECDの調査を引用させていただき、学力や科学・技術に対する興味という点から日本の成人をみてみると、先進国で最下位だということを強調させていただきました)。

しかし、市民になるためには、「勉強」だけでは不十分です。与えられたことを、先生の示す通りに学ぶというのは、キャッチアップには役立ちますが、方向性が不明瞭 な今のような時代には、もっと他の力が必要になるのではないでしょうか?  私は、その力が研究の力だと表現しています。研究とは、自らが知を体系づけること です。

そのためには、学習者自らが問いを出さなければなりません。(これまでの日本の授業は、教師のみが問う授業だったのではないでしょうか?)。環境問題、異文化理解 の問題、平和づくりの問題、人権の問題など、いろいろな「問題」が「総合的な学習の時間」で扱われていますが、これらは、いずれも勉強できるものではなく、研究するべき問題です。誰かがつくった答えを知ることではなく、自分で答えをつくる力を育てるために、このような未決の問題群を学校に入れるわけです。そしてその力の根 幹は、研究し、問う力と言っていいのではないかと思うのです。

日本の学校で「研究」が重んじられてこなかったことは、学校図書館がほとんど機能してこなかったことからも明らかです。私たちは、学校にプールをつくることの方が、 図書館を充実されることより大切だと考える社会に生きているのです。それに図書館というのは、多くの人が考えるように、楽しんで読書するための施設なのではありません。人が楽しんで読書するためだけに、無料で本を貸す必要がどこにあるでしょう か。図書館とは、市民が社会をつくる「研究」をする施設としてつくられた施設であ り、それゆえに無料で資料を閲覧させるわけです。(楽しんで読書することはそのために必要な力なのであって、図書館をつくる目的ではありません)。このことを確認してみても、私たちの学校が、善良な国民(市民ではありません)を育てるカリキュラムを軸につくられてきたことが分かります。

「じゃー、具体的にはどうしたらいいのか」という疑問に対する一つの答えとして、 「総合的な学習の時間」で3I’sを柱にしたカリキュラムの展開と評価をしてみたらいかがでしょうと、私は提案しています。

世界の指導案
http://jcultra.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/LPIW/

 

※堺市立浜寺小学校での研究発表会でのシンポジウムの発言をまとめていただきました。

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