沢木耕太郎「彼らの流儀」 1998.7.22 Wed.

娘たち

母たち三人が上野で花見をしている頃、実は、百五十日に及ぶ娘たち三人の旅は終わりに近づきつつあった。アフリカからモーリシャスを経てインド亜大陸へと旅を続け、あとは最終の目的地であるバリ島を残すだけになっていた。

旅の出発点はモロッコだった。アエロフロートの格安チケットにモスクワ経由カサブランカ行きというのがあり、それを使ってアフリカに入ることにしたからだ。

モロッコでのハイライトは、マラケッシュで知り合った若者の紹介で、ベルベルの村に「ホーム・ステイ」させてもらえたことだった。

自動車を乗り継ぎ、驢馬に乗り換え、ベルベルの村に着く。そこには山肌にへばりつくようにして土の家が建っており、彼女たちは、その一軒の家で、土間に自家製の絨毯が敷きつめられただけの部屋を与えてもらった。家にトイレはなく、近くの草むらで用を足さなくてはならない。しかし、その地で、彼女たちは心が震えるような日々をおくることになったのだ。

彼女たちが村の少女たちと親しくなれたのは、「アハワッシュ」という遊びがきっかけだった。ある日、村の道を歩いていると歌声が聞こえてくる。声のする方に行くと、十人ほどの少女が踊っていた。手拍子でリズムを取り、掛け合いで歌をうたいながら楽しそうにステップを踏んでいた。

「入れてくれる?」
身振りでそう訪ねると、いいよ、いいよ、入って、入ってと全員が笑顔で受け入れてくれた。

それまでは、カメラを向けたりすると、まさに蜘蛛の子を散らすように逃げてしまっていたのだが、その日を境にして、村の少女たちは三人が泊まっている部屋に集まっては一緒に「アハワッシュ」を踊るようになった。

朝起きて近くの川で顔を洗い、誰もいないのを見計らって草むらで用を足そうとすると、どこからか村の子供の呼ぶ声がする。
「ハディジャ!」

とにかく彼らはとびきり眼がいいのだ。そこで慌てて違う場所を探したりする。
そんなひとつひとつが彼女たちには新鮮だった。
村の少女たちが大事にしているものにビーズがあった。いちど作った首飾りや指輪も、またほどいては新しいものを作る。別れの朝、少女たちはその貴重なビーズで作った装飾品を彼女たちにプレゼントしてくれた。


タンザニアでは、何日にもわたって美しい艶をした野生の動物を見たあと、マサイの村に「ホームステイ」した。日数も短く、かなりの料金を払ってのことだったが、それはそれでまた印象的な時間を過ごすことができた。

モーリシャスの海ではダイビングをし、ネパールではヒマラヤの麓でトレッキングをし、インドでは砂漠地帯でキャメル・サファリもした。

駱駝は尻の皮がむけてしまった驢馬に比べると、はるかに心地のよい乗り物だった。彼女たちは老人のガイドに案内され、野宿をしながら古い遺跡を巡った。食事は老人の作るチャパティとカレー、ベッドは大地に敷いた毛布。だが、その簡素なベッドは、深夜、駱駝の声で眼を覚ますと、天から星空が覆い被さるように迫ってくる、という豪華な付録ついたものだった・・・・・。


飛びきりの体験を数多くしたにもかかわらず、彼女たちはほとんどトラブルらしいトラブルに巻き込まれることがなかった。それは恐らく、三人いることで積極さと慎重さのバランスがうまく取れ、その結果、未知の土地や人物に対して必要以上に恐れることもなく、かといって甘く見過ぎることもなく対処できたためにちがいなかった。

女であることの不利はあまり感じなかった。むしろ、女だからこそ入ることのできた場所や、うけることのできた親切や、結ぶことのできた関係の方が多かった。だが、それも三人だったからこそ可能なことだったかもしれない。一人では絶対に不可能だったろうし、二人では旅のありかたもかなり変化していただろう。


彼女たちに、帰ったら仕事はどうなっているだろうかという懸念がまったくなかったわけではない。しかし、実際にバリ島を経由して日本に帰ってみると、ディスプレー・コーディネーターのクニコは、その翌日から契約しているデパートに復帰することになり、コピー・ライターのヒデコも、帰りを待ちかねていてくれた知人の仕事を翌々日から手伝うことになった。そして、しばらくバリ島に残っていたグラフィック・デザイナーのユウコは、帰ってくるとヒデコと共に事務所を作ることになった。旅に出る前にフリーになったユウコは、いずれオフィスを構えなければならなかったし、ヒデコはヒデコで、住まいで仕事をするのは飽きはじめていたところだった。

事務所の名前は「カヤ」とした。それはインドネシア語で「金持ち」と意味する言葉であり、旅で金を使い果たした彼女たちの熱い願望をこめたネーミングだったが、あとでそれには別の意味があることがわかった。レゲエの王様ボブ・マリーに『カヤ』というアルバムがあることに気がつき、調べてみると、ジャマイカでは「マリファナ」を意味する言葉から転じて「ひと休み」という意味を持つようになっていることがわかったのだ。

しかし、それを知って彼女たちはむしろ喜んだ。仕事場が「ひと休み」の場になればそれにこしたことはなかったからだ。

*

三人の娘たちは、日本に帰り、それぞれ仕事に復帰したが、実はまだ旅は終わっていなかった。

夏のある日、ユウコが、ヒデコとクニコの部屋に「こんなのがあるんだって」と新聞を持ってきた。それは朝日新聞の全段広告で、「食空間と生活文化ラウンドテーブル」という会が主催するコンテストの案内が出ていた。

そのコンテストとは「テーブル・コーディネート大賞」なるもので、「優しい食卓」というテーマのもとに、「土曜の夕食」、「コーヒータイム」、「お祝いの食事」など六つの部門に個性的なテーブルのコーディネートの腕を競う、というものだった。

三人は、大賞五十万円、部門賞二十万円という賞金に釣られたこともあって、「ホームパーティー」部門に応募することにした。

テーブルのコーディネートは、デパートなどでディスプレーをしているクニコの守備範囲だった。それを写真に撮るのはグラフィック・デザイナーのユウコが引き受けた。そして、それにそえなくてはならない趣旨説明はコピー・ライターのヒデコが書いた。

【今回の「優しい食卓」というテーマを見た時、私たち三人は、真っ先にマサイの「大地のテーブル」を思い浮かべました。マサイピープルとの最高のコミュニケーションを日本で再現したい。できる限り自然のものを利用したい。旅行で買い求めたお土産を飾っておくだけでなく、もっと身近に使いたい】

そこで、テーブル・クロスはアフリカで買い求めた泥染めを使い、ドリンク・ボトルはマサイでは貴重品の子安貝を用いたものを使った。皿の下には里芋やバナナなどの自然の葉を敷き、ナプキンはマサイの人々が身に纏っていた布と同じ色のものを用意した。そして、テーブルの中央には、マサイの村にあった大きな木をイメージして作ったフルーツ・コンポートを置いた。


応募してしばらくすると、千点あまりの作品の中から選ばれた最後の三十数点に残ったという知らせを受けた。ついては、有楽町のマリオンで開かれる決勝大会で、写真と同じものを実際にセッティングしてもらい、部門賞六点と大賞一点を決めたいという。

当日は、他の人たちが真剣に仕上げていくのに対して、彼女たちはのんびりとセッティングしていたため、時間ぎりぎりにようやく出来上がるという始末だった。全員締め切り間際にならないとエンジンがかからないという悪い癖が出たともいえるが、何もこのていどのことに眼をつり上げるほどのことはないという思いもなくはなかった。

ところが、午後からの成績発表会に出てみると、大賞は逸したものの「ホーブパーティー」部門の部門賞を受けることになってしまった。

しかし、だからといって、それが自分たちのセンスに人並み以上のものがあったからだなどと思ったりしなかった。広い会場を見渡しても、ましをイメージしたようなものはどこにもない。だから、選考委員たちも、ひとつくらい変わったものを選んでおこうという気になったのだろう・・・・・・・。

賞金二十万円の大半は、友人たちとの「パーティー」に消えた。
そしてさらに、旅から帰って丸一年目のこの春、『アサヒグラフ』の別冊として刊行された 「楽しい食卓の演出」という号に、めでたく彼女たちの作品も写真入りで掲載されたのだった。 娘たちの旅は、これで一応ハッピーエンドを迎えることになったといえなくもない。

旅は彼女たちの関係を変えなかった。長い旅をすることで、これまでの親しさにヒビが入ることもなかったし、いままで以上に深い絆ができたということもなかった。

ヒデコは、仕事が軌道にのりはじめると、あるボランティア組織に寄金をするようになった。旅に出る前は、そうした行為に偽善のにおいを感じて敬遠していたが、帰ってくると、とりあえず自分にできることをしようと思うようになった。

クニコは、今年の正月、ひとりでヨーロッパに行った。あの旅をしたことでさらに外国旅行が身軽にできるようになっていた。しかし、ヨーロッパのどこへ行っても、刺激が少なく、物足りなく思えてきてしまうのには困った。

ユウコはバリ島から成田に着いた時、ふと、自分はいくらか清潔な東南アジアのどこかの空港にトランジットするだけなのだ、と思った。その感覚はどこかにいまでも残っている。

旅に出る直前、彼女たちはちょうど百歳になった。もちろん、三人の合計の年齢である。旅をしている間も、三人はそのことを強く意識していた。そして、暗黙のうちにひとつの約束ができた。その約束とは、三人の合計が二百歳になった時、必ずもう一度このような旅をしよう、というものだった。

彼女たちが二百歳になる時。それは、彼女たちが、旅先の娘に思いを馳せながら上野で花見をしていた母たちと同じような年齢になるということでもある。彼女たちの二百歳記念の旅がどのようなものになるかはわからない。しかし、彼女たちが旅をしている間には、存外、彼女の娘たちが六本木の喫茶店にでも集まってこんなことを言い合っているかもしれない。

「いまごろ母さんたちはどうしているかしら」
「まったくあの三人ときたら・・・・・・」